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寺山修司の長編小説の舞台を、1960年代後半の新宿から2021年に移して映画化した『あゝ、荒野』 前篇が公開された。(後篇は21日公開)。
共に孤独な日々を送る新次(菅田将暉)と建二(ヤン・イクチュン)が出会い、プロボクサーの新宿新次とバリカン建二となって固い絆で結ばれていくが…というのが大筋。
前後篇合わせて5時間余の大作で、菅田とヤンがボクサーの体に成り切って、すさまじいファイトシーンを見せる。菅田は汚れ役に果敢に挑み、ヤンは『息もできない』(08)で見せた暴力的な男とは違う、優し過ぎる内気な男の役を好演している。
さて、こうした役者が体を張った映画はなかなか批判しにくいものがあるのだが、あえて言わせてもらえば、まず、目をむき、怒鳴り散らすことが豊かな感情表現だと勘違いしているのではないか、と感じさせられるシーンが多々ある。
岸善幸監督は「激しいボクシングとセックスのシーンを通して“人とつながること”を表現したかった」と語っているが、果たして寺山はそんなことが言いたかったのだろうか、これは作り手の独りよがりの解釈ではないのか、という気がした。
また、建二を年上にし、新次の母親を登場させ、互いの父親同士に因縁を持たせ、そこに東日本大震災や自衛隊の海外派兵問題を絡めるなど、原作にはない事項を多数入れ込んでいる。こうした必ずしも必要ではないと思われるエピソードを勝手に加えたのに、「前後篇合わせて5時間余になりました」と得意げに言われても困惑させられるだけだ。原作との時代差を出したかったのなら、もっと別の方法があったのではないかと思う。
例えば、先に公開された『関ヶ原』の原作(司馬遼太郎)は、上中下3巻という大冊であるが、映画として見せるため(時間内に収めるため)に、原作にあるエピソードを多数削って約2時間半とした。その取捨選択が必ずしも成功していたとは思えないが、映画はテレビの連続ドラマとは違うのだ、という作り手の気概は感じることができた。本作とは対照的である。
最近、よく目にするニ部作映画だが、本当にそうする必要があるのか、編集で削る努力を怠っているだけなのではないか、と思えるものが多い。本作もせいぜい2時間半ぐらいに収めれば、締まったいい映画になったかもしれない。それが残念だ。(田中雄二)