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ではそんな時代の変化を示すことに、どんな意味があるのか。一般に、戦国時代末期を描く作品では、大きな合戦のない関ヶ原の戦いから大坂の陣の間は、あっという間に過ぎることが多い。そのため、さほど時間が経っていない印象を受けるが、実際にはその間に14年もの時が流れている。14年と言えば、桶狭間の戦いから長篠の戦いに至る年月とほぼ同じだ。先ほど、「つい最近放送された関ヶ原の戦い」と書いたが、そこからこの回まで、劇中では大きな時間の隔たりがあるわけだ。
実際に自分の実体験として14年という年月を振り返ってみても、多くのことを経験し、世の中もかなり変化していることに気付くはずだ。この回は、それを実感させてくれたことで、大坂の陣が、関ヶ原の時代とは異なる世の中で行われたことが明確に伝わってきた。
それにより、豊臣の栄華を取り戻そうとする茶々が、ある種、時代遅れのようにも感じられたのは筆者だけだろうか。茶々が豊臣に味方する牢人たちを鼓舞する場面もあったが、人間的な強さを見せれば見せるほど、「今さら」感が際立ってくる。その悲哀と人間的強さの絶妙なバランスは、北川の熱演とも相まって、茶々という人物をより味わい深くしていた。
これに対して、70歳を過ぎ、自身の衰えを認識している家康は、老体にムチ打って大坂の陣の指揮を執り、戦乱の世の幕引きを図ろうとする。「人殺しの術など覚えんでよい」という息子・秀忠(森崎ウィン)に対する思いやりは、人間にとって決して短くない「14年」という時間があることで、より重みを増してくる。
時代の変化を感じさせることで、さらに重みと深みを増した大坂の陣。家康と茶々の対立を軸としたその人間ドラマがどんな終焉(しゅうえん)を迎えるのか。最終回まで残り二回、ますます目が離せなくなってきた。
(井上健一)