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『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』(2月28日公開)
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1961年の冬、ミネソタ出身で19歳の無名のミュージシャン、ボブ・ディラン(ティモシー・シャラメ)がニューヨークにたどり着く。そして、後に恋人となるシルビー(エル・ファニング)や音楽上のパートナーとなる歌手のジョーン・バエズ(モニカ・バルバロ)、先輩ミュージシャンのウディ・ガスリー(スクート・マクネイリー)やピート・シーガー(エドワード・ノートン)、ジョニー・キャッシュ(ボイド・ホルブルック)らと出会う。
ディランは、時代の変化に呼応するフォークミュージックシーンの中で、独特の曲と歌声で世間の注目を集めていく。やがて「フォーク界のプリンス」「若者の代弁者」などと祭り上げられるが、そのことに違和感を抱くようになる。高まる名声に反して自分の進む道を模索するディランは、1965年7月25日、ニューポート・フォーク・フェスティバルの舞台上である決断をする。
監督は、この映画にも登場するジョニー・キャッシュを主人公とした『ウォーク・ザ・ライン 君につづく道』(05)も撮ったジェームズ・マンゴールド。今年のアカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞(シャラメ)、助演男優賞(ノートン)、助演女優賞(バルバロ)をはじめ8部門でノミネートされた。
ディランが登場した60年代初頭から現在まで、アメリカは激しく変転を繰り返し、ディラン自身も時代によってさまざまな変化を遂げてファンを戸惑わせもした。日本でもガロの「学生街の喫茶店」(72)で「片隅で聴いていたボブ・ディラン」と歌われたように、あの時代を象徴する人物の一人でもある。
だが、この映画はそうしたディランの紆余(うよ)曲折の音楽人生を描くのではなく、若き日の5年間を切り取って描いている点がユニークだ。それ故、焦点が絞られて伝記映画というよりも、まさにタイトル通りの“名もなき者”を主人公にした一種の青春映画として見ることができる。
また、歌い方や、ギターの弾き方、話し方はもちろん、ちょっとしたしぐさまで見事にディランに似せたシャラメをはじめ、ノートン、ホルブルック、バルバロらが皆吹き替えなしで、自ら歌い演奏している点も特筆に値する。中でも、ディランの才能を認めて引き上げる役割を果たしながら後に対立するシーガーを演じたノートンが素晴らしい。
この若き日のディランを描いた映画を見て、今も健在である彼に思いをはせると、こんな感慨が浮かんだ。かつてロックスターは早世することでかっこいいと言われた。確かに太く短い人生は華々しいが、実はじたばたしながらも生きながらえて音楽をやり続けることの方がかっこいいのではないか。まさにディランが歌ったように、「転がる石のように、風に吹かれて、時代は変わる」のだから。
バエズを演じたバルバロがディランとバエズについて、「ディランもバエズも両面性があって矛盾しているところがある。皮肉屋なのに理想主義者、愛を信じているのに放浪者、反資本主義者なのに目立つ金歯がある。そういうところに共感するの」と面白い分析をしている。
そんなこの映画を見て、ディランや彼の周辺のことをもっと知りたくなったら、『ウディ・ガスリー わが心のふるさと』(76)、6人の俳優がディランを演じた『アイム・ノット・ゼア』(07)、ボブ・ディランになれなかった男を描いた『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』(13)などを併せて見てみるのも一興だ。