【大河ドラマコラム】「麒麟がくる」最終回「本能寺の変」光秀の最後の言葉が意味するもの

2021年2月8日 / 18:34

 NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」が、2月7日放送の最終回「本能寺の変」を持ってついに完結した。これまで積み上げてきた明智光秀(長谷川博己)と織田信長(染谷将太)の絆と愛憎に導かれた本能寺の変が、クライマックスにふさわしいスケールと高い熱量で描かれ、息つく間もない1時間となった。

明智光秀役の長谷川博己

 「謀反人・明智光秀」のイメージを一新した作品にふさわしい最終回は、一言では語り尽くせない魅力にあふれ、SNS上でも大きな反響を呼んだが、ここでは光秀の最後のせりふに注目してみたい。信長を討った光秀は、焼け跡となった本能寺を去る直前、野次馬の中から進み出てきた伊呂波太夫(尾野真千子)にこう告げる。

「駒殿に伝えてもらえるか。必ず、麒麟が来る世にしてみせると」
「麒麟?」
「そう言っていただければ分かる。麒麟は、この明智十兵衛光秀が必ず呼んでみせると」
これが、全44回を駆け抜けた光秀の最後の言葉となった。

 その意味を考える上で、初めて「麒麟」という言葉が登場した場面を振り返ってみたい。それは第一回の終盤、駒(門脇麦)の口から飛び出した。駒は、火災現場から少女を救出した光秀に向かって、幼い頃、同じように火災に遭った自分を助けてくれた人物(後に、光秀の父だったことが判明)から聞いた話として、次のように語る。

 「その大きな手の人が、こう言って慰めてくれたんです。いつか、戦が終わるって。戦のない世の中になる。そういう世を作れる人が、きっと出てくる。その人は、麒麟を連れてくるんだ。麒麟というのは、穏やかな国にやって来る不思議な生き物だよって。それを呼べる人が、必ず現れる。麒麟が来る世の中を。だから、もう少しの辛抱だ」

 これを聞いた光秀は、戦乱で荒れ果てた世の中を振り返って、「どこにも、麒麟はいない。何かを変えなければ、誰かが。美濃にも、京にも、麒麟は来ない」と語り、以後、麒麟を連れてくる人物を求め、足利義輝(向井理)、足利義昭(滝藤賢一)、織田信長と、さまざまな主君に仕えてきた。

 だが、いつまでたっても麒麟が現れる世は訪れない。そんな中、さまざまな経験を積み重ねた光秀は、ついに「麒麟は、この明智十兵衛光秀が必ず呼んでみせる」と自ら宣言するに至る。「麒麟(を誰か)が(連れて)くる」から「麒麟(を自分)が(連れて)くる」へ。「何かを変えなければ」と言っていた「何か」は、光秀自身の志だった…というわけだ。すなわち本作は、無力な若者だった光秀が、「麒麟を呼んでみせる」と宣言するまでの成長物語だったとも言える。

 そう考えると、本能寺の変後の光秀が描かれなかったことも筋が通る。脚本の池端俊策が「彼(光秀)が死ぬシーンは書きたくなかった」と語ったインタビューも報道されているが、「自分が麒麟を呼んでみせる」と宣言した時点で、光秀の成長のドラマは完結している。だから、仮にその後を描いても、段取り的な描写になってしまう可能性が高い。その点でも、その後のエピソードは本作にとって必要不可欠なものではなかったと解釈できる。

 また、その光秀の生きざまからは、今を生きる私たちへのメッセージを読み取ることもできる。平穏な世の中は、誰かを当てにするのではなく、一人一人が「自分が作っていく」という志を持つことから生まれるのだと。(本能寺の変から数年後のシーンで、義昭が「世を正しく変えようと思うのは、志じゃ」と言っていることもポイント)。つまり「麒麟がくる」は、戦国を駆け抜けた明智光秀の物語であると同時に、困難な世を生きる全ての人に向けたエールだったと思うのだ。(井上健一)


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