作家性にこだわるあまり空回りした『東京2020オリンピック SIDE:A』【映画コラム】

2022年6月3日 / 09:00

『東京2020オリンピック SIDE:A』(6月3日公開)

(C)2022-International Olympic Committee-All Rights Reserved.

 新型コロナウイルスのまん延で1年延期となり、開催自体も疑問視された「東京2020オリンピック」は、その存在意義をはじめ、さまざまな問題を提起した。だからこそ、それを記録する映画も、ただ競技を追うだけでは済まされないところはあったと思う。

 河瀬直美監督も「IOCからも『これまでとは少し違う映画を』『市川崑の時代に戻りたい』という言葉があった。つまり、作家性ということで、私にしか撮れないものを求められた」と語っている。

 だが、出来上がった映画に関しては、果たして問題提起がしたかったのか、河瀬監督お得意の映像詩的なものが撮りたかったのか、選手のバックグラウンドや内面に迫りたかったのか、主眼がよく分からない。そのどれもが中途半端であり、脈略もないから散漫な印象を受ける。作家性にこだわるあまり空回りしているのだ。

 また、「アスリートも人間である」というのが今回のテーマだったようだが、それを表現するために、選手や関係者へのインタビューを多用した点にも疑問が残った。

 前回、1964年の東京オリンピックを記録した市川崑監督の『東京オリンピック』(65)も、記録か芸術かで賛否両論はあったものの、少なくともインタビューなどは入れずに、映像とナレーションで勝負していた。ひたすら彼ら、彼女ら、選手の姿や競技を映すことで、言葉以上のものを提示し、引いては彼らの内面やスポーツの持つ素晴らしさを感じさせた。

 市川監督は「単なる記録映画にしたくなかった。望遠レンズを駆使して、選手の表面のたくましさや、美しさだけではなく、選手それぞれの内面的なものを捉えることができた」と語っているが、スポーツの記録映像の真骨頂とはそうしたところにあるのではないか。この映画におけるインタビューの多用は、映像で表現し切れない部分を補い、説明するための逃げなのではないのかという気がしたのだ。

 市川版は、無名の選手や観客の姿、マイナーな競技の描写などに作家性をにじませながら、陸上男子100メートルのボブ・ヘイズ、体操女子のベラ・チャスラフスカ、柔道のアントン・ヘーシンク、男子マラソンのアベベ・ビキラ、東洋の魔女と呼ばれた日本女子バレーボールチームといった“主役たち”の姿もきちんと映し取っていた。だからこそ、あの映画を見ることで、今も、64年の東京オリンピックの名場面や名選手たちを振り返ることができるのだ。

 
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