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『エンドロールのつづき』(1月20日公開)
2010年、インドの田舎町で暮らす9歳の少年サマイ(バビン・ラバリ)は、学校に通いながら父のチャイ店を手伝っている。厳格な父は映画を低俗なものと考えているが、信仰するカーリー女神の映画だけは特別だとし、これで最後だと言いながら、家族で映画を見に行く。
初めて見る映画の世界にすっかり心を奪われたサマイは、後日映画館に忍び込むが、チケット代を払えず追い出されてしまう。それを見た映写技師のファザルは、料理上手なサマイの母が作る弁当と引き換えに、映写室から映画を見せることを提案。サマイは映写窓から見るさまざまな映画に圧倒され、自分も映画を作りたいと思うようになる。
パン・ナリン監督が自身の体験を基に描いたヒューマンドラマで、インド版の『ニュー・シネマ・パラダイス』(88)だといわれる。
確かに、少年と映写技師との交流、片田舎の村の様子や住民の描写なども交えながら、映画(フィルム、光と影)や映画館に対する愛を表現するなど、両作の構成はよく似ている。
だが、『ニュー・シネマ・パラダイス』が、第2次世界大戦終結直後を背景にした“昔話”だったのに対し、この映画は、時代背景を今から10年ほど前に設定し、インドの現実、没落したサマイの父の葛藤や、サマイの映画監督としての萌芽(ほうが)を具体的に見せたところに大きな違いがある。
何より、『ニュー・シネマ・パラダイス』には良くも悪くも、作為的であざといところがある(そこがいいという言い方もできる)が、この映画はもっと素朴でかわいらしい感じがするのだ。それは、大人になったサマイを見せず、少年のままで終わらせたことも功を奏している。
だから、父、教師、映写技師、友だちのみんなが、村を後にして列車に乗り込むサマイを見送るシーンでは、強い決意を持った少年の旅立ちの姿として、ビレ・アウグスト監督の『ペレ』(87)のラストを思い出した。
そして、不要になった映写機やセルロイドフィルムの末路を見せた後で、フィルムが意外なものに変容し、サマイはそこにさまざまな映画やスターへの思いを重ねるというラストシーンは、有名な『ニュー・シネマ・パラダイス』のそれとはまた違った形で映画(フィルム)への愛が表現されていて、感動させられる。サマイの母が作るおいしそうな弁当の数々も見ものだ。
(田中雄二)