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ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが82歳で死去した。同グループのリーダーとして知られた彼は米国史上最高の作曲家の一人として広く認められ、先進的なスタジオ技術の先駆者であり、カリフォルニア・エクスペリエンスを最も繊細に記録した人物の一人だった。
彼の死は、現地時間20215年6月11日に自身のSNSに投稿されたメッセージで確認された。投稿には、「私たちの最愛の父、ブライアン・ウィルソンが亡くなりましたことを、深い悲しみとともにご報告いたします。今は言葉も失っています。現在、家族は悲しみに包まれているためプライバシーを尊重してください。私たちはこの悲しみを世界と共有していることを認識しています。愛と慈悲を」と書かれている。
ウィルソンには、1964年にマリリン・ロヴェルと結婚して生まれた娘カーニーとウェンディ、そして妻メリンダ・レッドベターとの間に養子として迎えた5人の子どもたちが残された。(レッドベター自身は2024年初めに亡くなっている。)
ウィルソンは1942年6月20日、米カリフォルニア州イングルウッドで、オードリー・ネヴァと、工場労働者からソングライター、そしてビーチ・ボーイズの初期マネージャーとなったマレー・ウィルソンの間に生まれた。ホーソーン高校でウィルソンはスポーツ選手だったが、ハーモニーの才能を発揮していた。1961年の夏、彼は弟のカールとデニス(二人とも故人)、いとこのマイク・ラヴ、そして友人のアル・ジャーディンとともに、ペンドルトーンズを結成した。地元のカルピックス・レーベルからリリースされた彼らの初歩的な「Surfin’」は、新しい名前“ザ・ビーチ・ボーイズ”として地域的なヒットとなり、次の数作がキャピトル・レコードとの契約に繋がった。
翌年の「Surfin’ U.S.A. 」は全米2位を獲得し、ザ・ビーチ・ボーイズはスーパースターとなった。63年から65年までバンドは毎年3枚のスタジオ・アルバムをリリースし、ほぼノンストップでツアーを続けた。1963年9月の『サーファー・ガール』までにはプロデューサーとしてフル・クレジットを獲得したウィルソンは、編曲家、サウンドメイカーとして急速な進歩を遂げた。ハーモニーはオーバーダビングされて完璧なものとなり、彼は「In My Room」などのバラードではしばしばファルセットのリード・ボーカルを歌った。メンバーの楽器の演奏技術も向上したが、ウィルソンはまもなくセッション・ミュージシャンを迎え入れた。ザ・ビートルズなどによるブリティッシュ・インヴェイジョンも彼らの人気を止めることはできないほど、ザ・ビーチ・ボーイズは米国最大のバンドだった。
しかし、長い間息子たちを虐げてきたマレー・ウィルソンとの対立、そして絶え間ないスケジュールを維持しなければならないというプレッシャーが、ウィルソンの不安をさらに大きくした。1964年後半に飛行機の中でパニック発作を起こした後、彼は演奏活動を停止した。LSDを初めて体験した際、彼は1965年7月に「California Girls」を作曲し、これがツアーにおいてウィルソンの代役を務めていたブルース・ジョンストンのスタジオ・デビュー作となった。
1966年5月にリリースされた大作『ペット・サウンズ』では、ウィルソンと作詞家のトニー・アッシャーが、若々しい無邪気さから悲しみに満ちた大人への成長過程を描いた一連の楽曲を制作し、ウィルソンはそれを繊細で洗練された、しかし心開かれたオーケストレーションで表現した。ウィルソンはさらに型破りな楽器編成を用いて、いくつかのスタジオでバンドの次のシングルを録音したが、1966年10月にリリースされた「Good Vibrations」が世界的な大ヒット曲となった。
その間、彼は同じく実験的な音楽家であるヴァン・ダイク・パークスとともに、さらに野心的な『スマイル』の制作に何か月も苦心したが、その複雑さに圧倒されたプロデューサーが結局このプロジェクトを断念し、1967年9月によりシンプルな『スマイリー・スマイル』をリリースした。このアルバムは60年代後半から70年代前半にかけてリリースされた、創造性に富むものの商業的にはあまり成功しなかった一連のアルバムの最初の作品であり、ウィルソンはこれらのアルバムではその貢献度を明らかに低下させている。1974年に3作連続で発表されたコンピレーション・アルバムの最初の作品『エンドレス・サマー』が予想外に全米1位を獲得すると、バンドは突然その時代のトップ・ツアー・アーティストとなった。
マリリン・ウィルソンは、1976年の『15・ビッグ・ワンズ』と1977年の『ラヴ・ユー』の制作中に、夫の不安定さと依存症を治療するために、有名精神科医のユージン・ランディを雇った。ランディが解雇された後、ウィルソンの状態は再び悪化し、1983年に過剰摂取でランディが再び呼び戻された。このセラピストのウィルソンに対する支配は、1988年のソロ・デビュー・アルバム『ブライアン・ウィルソン』や1991年の自伝『Wouldn’t It Be Nice(原題)』にまで及び、1992年に接近禁止命令が出されるまで続いた。
ウィルソンの健康状態は徐々に回復し、1995年にレッドベターと結婚、創作活動を再開すると、2004年にはかつて放棄されたアルバムを再録音した『スマイル』(原題:Brian Wilson Presents Smile)が、当然のことながら世界中で絶賛された。彼はソロ・ツアーを再開し、2012年にはザ・ビーチ・ボーイズとともにツアーを行った。その年、ウィルソンがプロデュースしたアルバム『ゴッド・メイド・ザ・ラジオ~神の創りしラジオ~』(原題:That’s Why God Made the Radio)がリリースされ、この作品で初期のギタリストだったデヴィッド・マークスが復帰、バンドの50周年を祝った。
元妻マリリン・ウィルソン=ラザフォードが提起した訴訟の書類によると、2021年12月にウィルソンは、5,000万ドル(約71億円)以上でユニバーサルに出版権を売却した。近年、ウィルソンは精神的および肉体的な健康の著しい衰えに見舞われ、2024年後半に後見人制度の対象となった。
2014年に公開され、高い評価を受けた伝記映画『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』は、このミュージシャンの台頭、没落、そして比較的安定した生活への復帰を綴った作品だが、ウィルソンの作品の偉大さは、問題を抱えた天才という伝説をはるかに凌ぐ。太陽、サーフィン、車、若い女、そして自身の弱さを等しく巧みに表現したウィルソンは、ロックの視野を広げ、その精神的な影響力を深めた。
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