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1990年代にメジャーシーンで活躍したロックバンド、JIGGER’S SONのヴォーカリスト、坂本サトルがソロ活動を開始したのが1999年。そのデビュー曲が「天使達の歌」である。当初はインディーズで、しかも北海道・東北地方限定発売の同曲だったが、精力的なライヴ活動が功を奏して、異例のセールスを記録。コンサート動員も増大し、逆輸入的に中央のメディアでも紹介されて、メジャー復帰も果たした。当時、『ミュージックステーション』に出演したり、『情熱大陸』でも密着されたりしたことを覚えていらっしゃる方もいるだろうか。現在の彼は故郷・青森に拠点を移し、シンガーソングライターとしてはもちろんのこと、再結成したJIGGER’S SONの他、バンドやユニットでの活動、他アーティストのプロデュースと、多忙ながらも極めて充実した音楽人生を送っている。坂本サトルがソロ活動開始から四半世紀。2024年は「天使達の歌」が世に出て25周年である。これはお祝いの意味も込めて、直接ご本人に話を訊いてみたい。そう思い立ち、FacebookのDMで取材を申し込んだ。快くお引き受けいただいて、後日インタビューさせてもらったのが以下のテキストである。
振り返ると 激動の25年だった
――1999年2月20日に「天使達の歌」の北海道・東北限定版シングルが発売されました。四半世紀経ちますね。率直に、その四半世紀っていうのは、ざっくり振り返ってどうですか?
「どうだったかなぁ…まぁ、あっと言う間ではなかったですよ。プライベートでも離婚したり再婚したりもしたし、あれから事務所も何個か移ったり、今度は自分たちで独立したり、その(独立した時の)パートナーが死んじゃったり、青森に移住したり…ですね。ほんと振り返ると激動の25年でしたね」
──で、そのシングル「天使達の歌」、そして、アルバム『終わらない歌』の話をうかがっていくんですけど、それを語ってもらうには、やっぱりJIGGER’S SONから軽く振り返ってもらわないといけないと思います。これもざっくりとした質問になりますけど、1990年代のJIGGER’S SONをサトルさん自身はどんなふうに振り返りますか?
「1990年代のJIGGER’S SONねぇ…今デビューしてくる若い子たちの完成度の高い音楽を聴いていると、コロムビアがあんな未完成の状態でよくデビューさせてくれたなって思いますよね。今の子たちは自分で育っているでしょ? みんな、ネットや動画でものすごいスピードで、曲の作り方、いい音で作品を作ることを学んで、形が出来上がったところにレコード会社が声かける…みたいな。そんな感じじゃなくて、当時はデビューさせてから育てるみたいなことをやってたわけですよね。そういう意味では、いい時代だったのかもしれないですけどね。レコード会社にはお金があったっていうか、余裕があったっていうことなんでしょうけど、よくあの状態で(JIGGER’S SONを)デビューさせてくれたな、と(苦笑)」
──日本コロムビア80周年記念コンテストでグランプリを獲って、それがデビューのきっかけだったわけなんですけど、デビューするっていう話になった時に“ちょっと待ってもらえませんか?”って話があったっていうのを他のインタビューでも読みました。ご自身には“まだメジャーへ出ていくにはしんどいだろう”って思いがあったんですね?
「ちょうどその頃に、曲の作り方というか、自分らしさというか、オリジナリティーというか、“自分たちじゃないとできないこと”っていう意味が分かったばっかりだったんですよね。意味が分かって初めて書いた曲(※註:後にデビュー曲となる「お宝」)でいきなりグランプリ獲って、デビューってなっちゃったから、俺としては“ちょっと! 今、分かったばっかりなんですけど…”っていうのがあったんですよ。だから、“始まったばっかりなのにいきなりデビューしちゃう…、何にも分かんないのに…”っていう。今掴みかけたものがあるから、デビュー前にもっと曲を作りたい。グランプリを獲ったことで、その時の感覚が正しいということが分かったわけですからね。“それをもうちょっと突き詰めてからデビューさせて”っていうことだったんですよね。あともうひとつあって、その時が1990年なんでその頃まだ『イカ天』の余波があったんですよ。いわゆるバンドブームですよね(※註:バンドブームをけん引したテレビ番組『三宅裕司のいかすバンド天国』、通称“イカ天”は1989年2月から1990年12月まで放送された)。“この中でデビューしていくのがちょっと危険だな” っていうのを何となく察知して」
──そういうブームにまみれるとダメだなと。それは冷静でしたね、たぶん。
「今考えると…ね。ちょうどそのあたりに、大学の同級生達が就職活動をしてた時期で、僕だけがずっとバンドやって就職活動も何にもしなくて。周りでは内定が決まったの何だのって言ってた時期だったので、“あれ? 俺、どうするんだろう?”と思って時に“デビューできるよ”っていう話になったから、“あっ、じゃあ、これが俺にとっての就職なんだな。だとしたら、一生の仕事にしないとな”と思ったんですよ。仙台ってね、そのころ毎年メジャーデビューするバンドが出てたんですよ。だけど、ほとんどの人たちが(アルバム)1枚だけ出すとか、デビューしたけどすぐいなくなっちゃった…みたいな感じだったから、“デビューするだけじゃダメなんだな”って。そういうところでは、仕事としてすごく真剣に考えてた気がしますね」
──結構面白いですね、その視点は。で、日本コロムビアからデビューしますが、(レーベル移籍後の)TRIADまで入れると、7枚のアルバムをJIGGER’S SONで作っています。今の新人バンドはそれこそ1枚出して終わりとか、2枚も出せない状態だけに、当時はレコード会社にお金があったってこともありますけど、7枚作ったというのは結構頑張ったというか…
「でもね、やっぱり当時は…これは繰り返しになりますけど、レコード会社に余裕があって大らかだったって事が大きかったと思います。今みたいに“1枚出してダメだったらもう次はないよ”っていう感じもなかったから、甘やかせてもらってたっていうか、長い目で見る余裕があったんだと思うんですよね。でも、だんだんその余裕もなくなっていって…まぁ、それが7枚目だったってことだと思うんですけどね。だから、本当に試行錯誤が許されたんですよね」
──ぶっちゃけたところ、言葉を選ばずに言うと、JIGGER’S SONはものすごく売れたわけじゃないんですけど、かといって、全然売れなかったわけでもないっていう感じでした。その“行けそうで行けない感じ”みたいなものにじくじたる想いがありましたよね、ずっと?
「ありましたね。今はもうちょっと客観的に見れるから、いろいろと“原因はあれだったんだろうな、これだったんだろうな”って分かりますけど、当時はそんなことは分かんないですし、タイアップとかが全盛の頃で…タイアップで売れるっていうね。いい話も来るんですよ。でも、最後まで他と競ってダメとか、“決まった”って言われていたのに決まっていなかったとかっていうのがあって、“これは信用できねぇな”っていう感じで(笑)。何かそれに一喜一憂して振り回されてる感じでしたね。今思えば、きっちり4人でライヴができていたから、“それでいい”って思えれば、活動休止しなくて良かったかもしれないし、状況は変わってたかもなぁと思うんですけど」
──調べてみたら、JIGGER’S SONがデビューした1992年っていうのは本当にバンドが世に出てきた時期で。その一方、その後にビジュアル系も出て来てて、本当に混沌としきて。しかも、CDは出せば売れたんですよ。1997年、1998年がCD売上のピークだそうです。いわゆるCDバブル。そりゃ迷いもするし、逡巡もするだろうなと。
「ねぇ? 何と言っても、やっぱり俺が人間的に本当に未熟だったので…“仕事としてデビューするんだ!”っていう、そういうところはすごく冷静だったと思うんですけども、そこからが未熟だったよね。だから、本当に冷静に客観的に、自分たちの状況を判断できなかったと今は思いますよね。本当にいい状況だったと思う、今思えば。でも、当時は全然思えなかった。“一緒にデビューして同じ感じだったのに、何でミスチル、スピッツ、THE YELLOW MONKEYはあんな感じになって、俺たちはまだこうなんだ!?”って。当時はね。今なら、“それはそれでいいんだよ。ちゃんと自分たちには役割もあるし、キャラクターもあるし、続けてればいいんだよ”って考えられるけど、当時は“何でなんだ!?”って思いがやっぱりありましたよね」
「天使達の歌」は 自分のために書いた曲
──そこから「天使達の歌」の話に流れていくとするならば、歌詞を改めて聴きますと、JIGGER’S SONが活動休止することになって、その失意の中、独りでインディーズでの活動を決意した時の気持ちを綴ったものだったと想像しがちですけど、そんなに簡単な話でもないんですよね?
「そうですね。JIGGER’S SONの7枚目の『バランス』というアルバムができた時に、何か自分がJIGGER’S SONでやりたいことが完成しちゃったみたいな気持ちがあって。で、もう音楽に対してのモチベーションもなくなって、“どうしよう?”と考えた時にソロっていうのがあると。“あれ? ソロ、ひとりでやるってすごいかも!と思った時に、一気にまた音楽で“あれもやりたい! これもやりたい!”って出てきて、“じゃあ、半年くらいソロ活動やらせてもらおう!”と。当初はそれぐらいで終わるつもりだったんですよね。プロジェクト的にやって、自分の気分転換というかね。そのあとまたバンドに戻ろうと考えていから“活動休止”っていう言い方をしたんですけども、いざバンドの活動を休止してソロとして曲を書き始めたら、“そんなに簡単なもんじゃないぞ、これは”って、実際に動き出したから分かって。ちょうどコロムビア的には都合のいい話だったと思うんですよ。“契約どうしよう? JIGGER’S SONの契約はこれで終わりかな?”と思っていたところに、俺が“ソロでやりたい”って言ったから、“サトルのソロだったら契約するよ”ってことになって。それで、他のメンバーは事務所もなくなって契約金もなくなったからバイトを始めるわけですよね。そこら辺が、俺が人間的に未熟だったって思うところなんですけど、JIGGER’S SONの契約が終わるってことは、他のメンバーがどういう生活を強いられるかってことをまったく想像できていなかったんですよ。で、いざそうなったら、みんな、バイトを始めるわけです。“あれ? そうか、バイトをするんだ!?”とか思って。で、急に焦り始めるわけですよね。“あれ? これって…ヤバいな! ソロをやって売れないとバンドに戻れないぞ”って。で、焦るんですけど、曲を書いても書いてもコロムビアからは“ソロデビュー曲はもっとすごい曲じゃないとダメだ”って言われ続けるという」
──16曲くらい書いたらしいですね?
「16曲。8カ月かかったかな?」
──それは何ですか? 焦りみたいなものがあったから、うまく曲になっていかなかったみたいな感じなんですか?
「どうなんですかね? 曲はいっぱい作っていたんですよね。それこそ16曲。しかも、断片だけじゃなくて、しっかりデモテープまで作るような。毎日朝、リュックに水を入れて、家を出て、“ひたすら歩くと曲ができるんじゃないかな?”って(笑)。で、そうやって歩き回りながら歌詞を書いて曲ができて、“できました!”ってスタッフに連絡すると、コロムビアと事務所のスタッフが会議室で待ってて、“どれどれ、曲を聴かせたまえ”みたいな。で、聴かせると“う~ん”みたいな(苦笑)。その繰り返しでね」
──ご自身では自信を持って出すわけですよね?
「出すんですけど、やっぱり…何つうんだろうな? “これはソロデビュー曲とは違うかもな”って自分でもどこか分かっていて。だから、その時は“これでOKって言ってくれたらラッキーだな”くらいで。分かんなくなっているんですよ。だって、その後、ソロとして結果的には…ギター一本の弾き語りで全国を回るスタイルになりますけど、その時はそんなことはまったく考えていないから。自分のソロになってやるスタイルっていうのも何にも決まっていないし、ソロとしてどういうアーティストになるのかも…本当に試行錯誤しながら作っているけど、一向にOKが出ない。で、みんなのバイトの話を聞いて、“ヤベぇ! ヤベぇ!”ってなる。メンバーの何人かは家庭も持っていたから、奥さんの顔もチラつくわけで。マット(※註:メンバーの坂本昌人(Ba)。坂本サトルの実弟)なんて、弟なわけだし、自分の家族を苦労させているっていうかね。しかも、あいつ、コンビニの配送のバイトやっていたんですよ。トラックで。それで、ある時に怪我したんですよ。それを見た時には“…この怪我は俺がさせたんだな”みたいな。その時、初めて、“俺は取り返しがつかないことしたんじゃないか!?”って思うわけですよ。ソロでやっていくことを決めて何カ月も経ってから。で、そこで生まれたのが「天使達の歌」なんです」
──追い込んだんじゃなくて、追い込まれちゃった感じなんですね?
「そう! 追い込まれちゃった。その時31歳でしたけど、31年間の最大のピンチでしたね、自分としては。だから、もう自分のために書いたんですよね「天使達の歌」は」
──JIGGER’S SONでももちろん個人の気持ちを反映させた楽曲はあったと思うんですけど、ここまでギリギリの感情というか、そういうものを吐露したものはなかったでしょうね。
「なかったですね。今までとはまったく違う曲なんですよね。「天使達の歌」ってね」
──しかも、これも他のインタビューで見ましたが、歌詞が頭からスラスラッと出てきたそうで。
「もう一筆書きでしたね。実際この歌詞って30分かかっていないんですよ、書くのに。で、メロディーに至ってはもう5分以内みたいな。だけど、そこに辿り着くまでが何カ月もあったわけなんですよね。16曲もの曲を書いて。初めてでしたね、自分のために曲を書くっていうのは」
──ちょっと簡単な言い方で申し訳ないですけど、自分自身に対して“頑張れ!”みたいな。
「救ってあげたかったんですよ。“これ、救わないとヤバいぞ、自分が!?”って(苦笑)。メンタルが結構ヤバかった。で、僕、自ら命を絶つって考えたことないんですけども、その時は“もうこれは終わる”と思ったんですよね。今思えば、そこまで思い詰める必要なかったけど、その時はメンバーに対しての責任も感じていて、その重圧で“あっ、終わるかもな”っていう」
──《その旅を 静かに終える日が来ても》っていう歌詞は、まさにそういうことですね。
「そうなんですよ。死ぬ瞬間。この世を旅立つ時っていうのがこの曲の最後の場面なわけです。そこまで考えていましたね」
──これは間違ってたらごめんなさいですが、その後、インストアで「天使達の歌」を弾き語りされた時、涙されるお客さんもいっぱいいて、亡くされた伴侶に重ねたリスナーもいたという話を聞きました。やっぱり“死の匂い”というものはありますもんね。
「ありますよね。これはもうピンとくる人はピンとくるわけですよね。“あっ、これ、死ぬ時の歌だな?”っていう。…まぁ、誰でもピンとくるか、“ゴール”って言っているからね」
本当に心の底からできたものは 何か理屈じゃないところに伝わる
──でも、それがまた広がりをもって、汎用性がどんどん出ていったみたいな話も当時のインタビューで聞いた記憶があるんですけど、それも面白いところですよね。面白いって言ったら失礼か。
「「天使達の歌」の歌詞はありふれた表現なんですけど、“理屈じゃないところで届いていくのかな?”と思っているんですよね。すごい今も覚えているのが、小学生が路上で歌っている僕を見て、“どうしてもこの人のCDが欲しい!”って親に言ったんだけど、親は“いいよ、いいよ。もう行こう”と。それでも“僕のお小遣いで買うからお願い!”って言って買ってくれたんです。 うちの母親くらいの方が聴いて泣いていたり、身体中がピアスだらけの子とか、いわゆるヤクザとかが並んでCDを買っていく。刑務所から手紙ももらいましたしね。この人たちが何かしら感動してくれて…もう説明できないわけですよ。もうひとつ言うと、2000年くらいかな? 中国でライヴをやったんですね。深圳っていうところに工業団地みたいな場所があって、そこで働いている6000人ぐらいの従業員のためにライヴやったんです。中国っていわゆる方言的な言語がたくさんあるから、そこでは北京語が共通語として使われてたんで、“北京語で1曲くらい歌ったほうがいいですよ”と言われて「Happy Birthday」という曲を北京語で歌ったんですよ。それがやっぱりめちゃくちゃウケて。で、後日アンケートを取ったらしいんですよ。“どの曲が良かったか?”って。当然、俺は「Happy Birthday」だと思った。北京語で歌ったし。そしたら「天使達の歌」だったんです。日本語で歌ったんですよ、もちろん。なのに、「天使達の歌」だって」
──何かが入るんでしょうね。
「そういう経験はね、「天使達の歌」では本当何回もしました」
──若干余談含みになりますが、20数年前にサトルさんにインタビューをさせてもらった中で結構印象が残っているのはそれで、“歌は自分のことを入れれば入れるほど汎用性が高くなる”と。
「その当時よく言っていたのは、自分のことを掘り下げていくと、どんどん自分にしか分からない歌になっていくんですけど、それをさらに本当の最後の最後まで掘っていくと、地下水とかマグマみたいなもので、実は人って一番下の深いところでつながっているんじゃないかと。独りよがりだと思っていたものが、マグマに辿り着いた瞬間に一気に汎用性を持つと。独りよがりで終わっている歌っていうのはそのマグマまで辿り着いていないんだよね」
──あと、「天使達の歌」のメロディーも決して単純とは言わないですけど、例えば筒美京平さんだったらもうちょっと足すような感じがあると思うんです。イントロをもうちょっと派手にするとか、サビをもうちょっと…とか。でも、そうじゃないんですよ。ほんとに一筆書きに近いというか、流れるようなメロディーではありますよね。
「一筆書きで歌詞を書いて、曲もそのまま付けたから、音楽的に分解するとすごい変な構成の曲なんですよ。Aメロがあります。で、“Bっぽい”のがある。サビに行く。サビの後にもう一回Aに行きます。その後は間奏に行っちゃって、次はもう一個の新しいメロディーが来て、またサビに行くっていう。一回しか出てこないメロディーがあったり。それからこの曲のサビって5小節で1セットなんです。5小節を繰り返すという。奇数ってなかなかないんですよ」
──ちょっと変則的ですよね。分かります。
「結構変なところがいっぱい入っているんですけど、それなぜかって言うと、歌詞に合わせて一筆書きでメロディーも作ったから。でも、それが変に聴こえないっていうのは、やっぱり合ってるんですよね、曲が歌詞に」
──それを再構築して、整えちゃったらダメだったんでしょうね。
「ダメだと思う。それこそ筒美さんとか職業作家とかに預けちゃうと“サビをもう一回繰り返そうよ”みたいなことになったかもしれないですけど、その時のサウンドプロデュースをやってくれたカーネーションの棚谷さんがそこは一切崩さなかったんですよね(※註:棚谷祐一氏。2002年までカーネーションに在籍)。コード進行とか構成は一切崩さないで。何かやっちゃうとやっぱり辻褄が合わなくなるんですよ。“ここ、歌詞がちょっと足んないよね?”みたいになる」
──間に合わせの歌詞を乗っけちゃったら台出しっていうことですよね?
「やっぱり、あの一筆書き感が重要なんだって気づきましたよね。一切繰り返さないじゃないですか、歌詞も含め。だから、変な曲なんですよ」
──旅立ちから終わりまできれいに流れていくという。
「そうなんですよ。だから、あれは本当にシンガーソングライターが書いた曲って感じですよね」
──だからこそ、それまでの16曲はダメ出しされてきたのに、17曲目の「天使達の歌」は満場一致でソロデビュー曲に決まったと。
「そうでしたね。初めて選曲会議でアンコールがかかりましたからね(笑)」
──で、ソロデビューとなるわけですけど、そこで小林さんが登場するんですね?(※註:小林英樹氏。当時はコロムビアレコードの社員だったが、のちに坂本と共に音楽制作会社“株式会社ラップランド”を設立することになる) すぐメジャーではなくて、東北・北海道限定のインディーズで「天使達の歌」を発売っていうのは小林さんと話しながら出てきたっていうことですか?
「あれはね、コロムビアレコードの中の主要な人何人かと…まぁ、そこに小林もいたのか。そこら辺の裏事情は分かんないんですけど、とにかくインディーズからやろうっていう。“だったら、ちょっと東北だけでやらせてくれ”みたいな。そういうのは小林が言ったんじゃないのかな?」
──小林さんはずっと仙台営業所にいらっしゃったんですよね。
「そう。小林ってバンドもやっていて、とっても音楽に詳しいし、ミュージシャンに対しての愛情もすごくあって。で、俺はレコード会社の中でも小林と一番仲良かったから、彼は僕の苦悩を見ていたんです。俺が追い詰められていくのも見てたし、そういう人の心の動きみたいなものに敏感な人だったから、きっと俺がヤバい状況になっていることを分かっていたと思うんですよ。で、その中で「天使達の歌」を俺が書いた時に“これは!?”って思ったと思うんですよね」
──“これはちゃんと売らなきゃいけない”と。プロモーターとして。
「まぁ、死んじゃったから良いように言いますけど、あいつが持っている人脈とかを全部使って、“もう思いっきりやらせてくれ!”って言ったんじゃないかな? コロムビアはそれでOKを出して。実は僕のソロになってからのインディーズの活動に関しては、コロムビアの本当にトップの人くらいしか知らなくて、現場の人は“サトルくん、最近は何やってるの?”ってなっていたんですよ。聞くところによると、コロムビアから小林に活動費っていうのが月いくらか出てて、“この中でサトルをやれ”と。周りの人たちは“サトルくんどうなっているの? 「天使達の歌」をレコーディングしてたよね? あれはいつ出るの?”みたいな」
──完全独立部隊みたいな感じだったんですね。当時はまだCDバブルも続いていた頃で、全国流通も簡単にできたと思うのですが、インディーズでの東北・北海道限定にしたっていうのも今思うと慧眼というか。
「まぁ、そうですね。今思えば…ね」
弾き語りとか路上ライヴは 絶対にやりたくないと思っていた
──で、もうひとつ、ソロ活動を始めてから路上ライヴ、居酒屋ライヴを行ないましたが、これは小林さんのアイディアだったと。当のサトルさんはやりたくなかったっていうのも聞いています。
「もともと弾き語りとか路上ライヴは“これだけは絶対にやりたくないな”って思っていたから。“貧乏くせえな”とか思っていたし(笑)。でも、小林が“路上ライヴをやろう。飲み屋でもやろう”って言った時に、何かもう完全に同意しちゃったんですよね。小林は誰よりも俺のことを分かっているから。あいつが決意を持って言っているのも分かったし。俺は歌う環境についての要求というか、プライドが高かったんですよね。“プロってのは音響も照明もちゃんと整ったステージでところでやらないとダメでしょ?”って。それで随分と喧嘩もしてきちゃったんですよね。“こんなところではやれねぇ”とか(苦笑)。で、俺も分かったんですよ。それまでよく言っていたのは、 “いいライヴをやっても、結局は観に来た人しか観ていない”って。今みたいにネットもないですし、口コミでどんどん広がっていくっていうことが今ほど爆発力もない。“観てもらえたら分かるのになぁ”って、いつもそればっかり言っていたから。小林としては“じゃあ、もう待たないで、こっちから観せに行くんだ!”と。俺もそれはまったくそのとおりだと思ったし、ソロがダメならもうダメだと思っていたからね」
──本当に背水の陣ですね。
「でも、今思えばね、そんなことはないんですよ。“いくらでもチャンスはあるし、1年、2年ダメだからって辞める必要はない”と今は思いますけど、当時は本当にソロ一発目の「天使達の歌」がダメだったら、もう全部ダメになると思っていたんで、可能性があることは全部やろうと」
──爆当たりしたんですよね、それが。
「爆当たりしましたね。それまでの自分はアコースティックギター1本でライヴができなかったんですよ。やったことがなかった。実はその半年くらい前に、デザイナーの駿東 宏さんっていう、その後、僕の作品のアートワークをほぼ全てやってくれることになる方なんですけど、出会った頃に駿東さんがイベントをやっていたんですよ。当時、西麻布にSpace Lab Yellowっていうクラブがあって、そこでファッション界の人たちとかそういう人たちばっかり集まるイベントを毎年やっていて、それに“サトルさん、出てくださいよ”って言うわけ。その時に“弾き語りでやります”って言っちゃったんですよね。貧乏くさいとか思っていたくせに。しかしながら、その時にね…20分ですよ。20分の弾き語りライヴができなかったんですから。そのために曲も書いたりして。それが「Yellow」なんですけどね。Yellowでやったから“Yellow”っていうタイトルなんですよ」
──アルバム『終わらない歌』の1曲目ですね。
「はい。で、なんとか20分やったんですけど、その時にめちゃくちゃウケたんですよね。それがあったから“路上ライヴもやれるかもな”と思ったんだけど、“路上かぁ…カッコ悪いなぁ”みたいな(苦笑)」
──当時その話もうかがっていて、居酒屋さんに行って“1曲歌うので聴いてくれ。もし、良かったらCDも買ってくれ”と。そうしたら、CDが飛ぶように売れた話がありましたよね?
「あのね、正確にはCDがまだ届いてない時の話なんですよ。生まれて初めての居酒屋ライヴは宴会場みたいな大広間だったんだけど、団体客じゃなくて、全部個人の4~5人のグループが何十組もいるっていう。そこに小林が出て行ってさ、“みなさん、すいません!”って(笑)」
──“聴いてください!”って?
「そう! 前説をやるんですよ。まず小林が出て行って、“あのぉ、お楽しみ中のところ、今からですね、ちょっとだけ歌を聴いてもらえないでしょうか? 坂本サトルと言うんですけど”って。お客さんの中にはJIGGER’S SONのことを知ってる人もいたから、“あっ!?”っていう人もいたりして、意外とウェルカムな感じになったんですよ。俺は“誰も聴いてねぇ”みたいな感じなんだろうなと思っていたから意外だったんですけど、意外と“おっ、面白そうだな。どれどれ…”という感じで。いきなり「天使達の歌」を歌ったのかな? めちゃくちゃウケたんですよ。“こんなにウケたことは今まであったかな?”くらいウケて(笑)。その時に“あれ? これは俺に向いてるかもしんねぇな”と思った(笑)。そこからですよね。そこから2週間くらいして、いわゆる“チョコレート版”って呼ばれた8センチのシングルができて、そこから売りながら歌うようになって、本当に飛ぶように売れたんですよね。“これが“飛ぶように売れる”ってヤツか!?”と」
──1枚1,000円くらいでしたか?
「500円」
──ワンコインってのが良かったんでしょうね。
「1曲しか入っていない。「天使達の歌」とカラオケだけ。これがね、もうプレスが間に合わなかったんですよ。覚えてる中で一番売れたのは、1日600枚ちょっとでしたね」
メジャーデビューした途端、 失速していく感じはすごくした
──そして、その限定版からメジャー復帰して、アルバム『終わらない歌』につながっていくわけなんですが、これがなかなかいいアルバムで。バラエティー豊かだっていうのがさすがソロだなという感じはしましたね。バンドサウンドも本当多彩だし、それこそケルトからサイケまであらゆる音が入っている感じでした。ちゃんとロックバンドというか、ロックの音になってるアルバムだなって感じはしますね。
「そこはやっぱり棚谷さんの手腕によるところが大きいですね。バラエティーには富んでるんですけど、結局演奏は全てカーネーションでやっているから、やっぱり一体感もありますしね」
──で、そこからメジャーに復帰するわけですけど、最後に私がインタビューさせていただいた2000年には…これは原稿にはしなかったですけど、“メジャーを離れて自分たちだけでやっていく”というようなことをおっしゃっていたんですよ。“「天使達の歌」が北海道、東北であそこまで行ったというのに、メジャーに戻ったあと、何かテンションがそんなに上がってないんだよね”みたいなこともおっしゃっていました。
「もう20年以上経ってるから言うと、要はアイディアなかったんだと思うんですよ、レコード会社に。インディーズでの活動は良くも悪くも秘密にしていたから、坂本サトルが急に『ミュージックステーション』に出て、“あれ? どうなってるの!?”みたいな。コロムビアの事情を知らない人たちにしてみれば…ね。で、北海道と東北でやったことを全国でもう一回やろうとしたんですよ。それは多少当たりはしましたけども、せっかくあるところまで行ったのにもう一回、一に戻るみたいなことだったから、「天使達の歌」があんだけ話題になって、『ミュージックステーション』にも出て、そのまま全国ツアーとか行っちゃえば、でっかいところでコンサートができなくても、それなりに全国どこ行ってもお客さんがある程度入るみたいなシーンって作れたと思うんです。だけど、それをやらないで、もう一回路上ライヴをまた半年くらいやるわけ(苦笑)。“何だ、こりゃ!?”と。小林は小林で、その頃、大抜擢されて本社に呼ばれるわけですね。「天使達の歌」がうまくいったことで」
──2001年度にTRIAD宣伝勤務となったそうですね。
「いずれにしてもメジャーデビューした途端、失速していく感じはすごくしたんですよね。それは小林もきっとすげぇ感じていて、焦ってもいたと思うんですけど。…本当にその時、もうインディーズになるって言ってました?」
──“そう決めた!”くらいな感じで。その後、コロムビアから離れられて、東北を中心に活動されていたので、なかなか取材の機会がなくなったっていうのはあるんですよね。
「そうですね。でも、“独立するなら小林とやる”っていうのは決めていましたね。結局、2002年にコロムビアを離れたわけですが」
──株式会社ラップランドを設立ですね(※註:株式会社ラップランドは、レコード会社プロモーション業務、アーティストマネージメント、原版制作などを行なう会社)。
「でもね、今みたいに…そんなタラレバの話しても仕様がないんですけど、“当時SNSが今くらいあったらどうなんだろうな?”って思うんですよね。例えば、路上でやっていることとか、ものすごい速さで拡散したと思うんですよ。そうすると、もっと状況も変わったと思いますし、ひとりで…というか、独立してやっていくっていうことに確信がもっと持てたんじゃないかと思うけど、当時はなかなかメジャーを離れてやってる人は…もちろんいましたけど、やり方も分からなかったし、成功例もあんまり聞いたことなかった」
──ってことは、ラップランドを設立した時はそこまで確信があったわけじゃないということですか?
「そうですね。確信があった…ということではなく、楽しくなくなったんですよね、本当に」
──メジャーで活動することが?
「レコーディングも苦痛だし、“何でこんなに楽しくないんだろう?”と。小林は小林で本社勤務になった途端、“もうつまんない”と。あいつが仙台営業所の時って放任主義っていうか、好き勝手やれたんですよ。仲間もいっぱいいたから、東京へ行っちゃうと東北にいた頃みたいにマスコミを自由に動かせないし、逆に言うこと聞かなきゃないし、ノルマもあるし、特に本社勤務になると全アーティストをやらなきゃない。“好きなアーティストだけをやりたい”みたいなことは言えない。で、どちらからともなく“辞めようか”って言って。ちょうど俺もソロとして“次の契約はどうなるんだろうね?”みたいな時期だったらしいんですよね、後で聞くと。だから、“切られる前に辞めちゃえ”みたいな」
──ソロのアルバムは思ったほど売り上げはいかなかったんですか?
「どうだろう? 10万枚くらいは売れたと思うんで、“十分じゃん”と今にしては思うけど、当時は“もっといくんじゃないの?”ってみんなが思っていたんじゃないかな?」
──その辺は難しいですね。でも、独立して東北を中心に活動するように至ったっていうのは、今になってみると、芸人さんを含めてローカルでやってる人たちは多くて。今、アイドルがそうですよね。アイドルはもう各地にいて、そういうエンターテイメントの形ができつつありますけど、サトルさんがやり始めたのは早かったと思います。
「そうね。ただ、とりあえずスタートを東北と北海道にしたっていうだけで、自分たちの活動拠点を東北にしようっていうのはまったく思っていなかったですよ。事務所は神奈川の川崎にあったし。2006年か2007年に小林が仙台に戻っちゃって、僕ひとりで川崎に残ったから“どうしようかな?”みたいな。全然、東北を中心に活動しているって意識はなかったんですよ(※註:株式会社ラップランドは2005年、本社業務を仙台市に移転)」
──そうですか。例えば、ラジオ番組にしても東北放送だったりとかそういうのが多かったのかなと。そのイメージがちょっとあったんですけど。
「ラジオはね。だけど、ライヴの本数とかツアーに関しては特に東北が多いってことでもなかったんですよ。独立した当初は俺と小林のふたりで川崎に拠点を持って、コロムビアと同じことができると思っていましたよ。実際最初のレコーディングはメジャーと同じくらい金をかけちゃって(苦笑)、それで後々ひどい目に遭うんだけど…。ただメジャーっていうタガが外れただけで、まったく活動はそれまでと変わらない。その頃って、ツアーも全国50本くらいやっているんですよね。本当に細かく回っていた。もちろん番組やメディアっていうことで言うと、仙台は30数年間レギュラーが切れたことがないから、番組は東北でやっているっていう感じはあったと思うんですけどね。ライヴ活動に関しては東北中心っていうふうには考えていなかったですね。東北が多め…ぐらい。青森なんてほとんどライヴをやっていなかったし。
青森に帰ってからですよ。東北を中心に活動しようと思ったのは」
音楽を嫌いになりたくないし、 飽きないようにしたい
──自分の生まれたところに戻ってきたっていうのは面白いですよね。
「面白いんですけど、“もう逃げ場はない”っていう気がしますね。地元に戻ったらそれ以上戻る場所ないじゃないですか」
──でもね、今の話と関係するかどうかはあれですけど、新潟にいる人で、若い頃にニューヨークとかで現代アートをやってた方がいるんですよ。坂本龍一さんとかと一緒に創作活動をされていた方で。その方は新潟に戻られて、今、実家の写真館で活動していて、“それが今一番面白い”と。
「これはその人と同じかどうか分からないんですけども、青森に戻って一番良かったと思うのは、例えばさ、FMで2時間くらい生放送をやって、その中で“こんなことをやりたい”となると、これが東京だと“自分の順番が回ってくるの、何年待ちゃいいんだ!?”ってなる。全てがそうなんですよ。でも、青森へ行って思ったのは…今、毎週2時間の生放送と、もう一個4時間の生放送をやっていて、“こんなにラジオばっかりやってていいのかな?”って最初の頃は思っていましたけど、場数が半端ないんですよ。毎週生放送でラジオの前でしゃべると。そこはクオリティーを落としたくないっていうのもあるのでね。2011年の東日本大震災辺りからradikoが一気に広がって、地方の番組が全国で聴ける状況が徐々に始まってきたから、地方局のラジオでも全国放送だと思ってやればいい。とにかく経験値がガンガン溜まっていくんですよね」
──あと、特にFMでラジオ番組なんかやってると、リアルタイムの音楽がガンガン聴ける、自然と耳に入ってくるというところもいいでしょう。
「それもあリますね。今、午後ワイドの4時間生番組ってのをやっているんですよね、AM局で。それはね、本当に普段生活している人たちの声が届くんですよ。深夜ラジオを聴いている人っていうのは、その時間に狙って聴いてくるでしょ? だけど、午後ワイドっていうのは時計代りに流している人が多いからから、別に俺じゃなくてもいい。ファンと言うよりは普通の人ですよね。そういう人たちからのメールって、すごいその時代の空気感みたいなものを感じるんですよ。“こういう人が毎日暮らしてるんだな”と。1時間に1回必ずニュースも入る。ニュースにすごい敏感になりますし、物を話す時って、やっぱりニュースを知らないと話せないから。ってなるとね、世の流れがすごい掴めるようになるんですよね。圧倒的に快適な環境は作れていると思いますよ。例えば、スタジオひとつ作るにしても建設費用って10分の1ぐらいですからね。10分の1で広さが2倍みたいな」
──サトルさんは青森に戻られてから…いや、戻る前からJIGGER’S SONの再結成があったり、他アーティストのプロデュースもあったり、ソロの活動ももちろんあるし、それ以外のバンド、ユニットといろいろやっていて、音楽活動としてはこれまでにない充実した日々を送ってるのは、これはもうすごいことだなと思うわけです。
「音楽を仕事にするってデビューの時に決めたことで、“一生の仕事にするんだ”って今もずっと思っているんですよね。で、この25年で世界だけじゃなくて、音楽業界がものすごい変わったじゃないですか。CDがダウンロードになって、サブスクになって、制作費を回収する方法も変わるし、まったく音楽の聴き方も買い方も変わっていくっていう激動をずっと経験してきたんですけども、その中でできるだけ最新の情報とか最新の技術に目を光らせて、“その中で何ができるんだろう?”って、自分の置かれたプライベートな環境も含めて、とにかくその中で最適なものを選んできたつもりなんですよ。その中で大事なことっていうのは、音楽を嫌いになりたくないし、飽きないようにしたいっていう。だから、飽きそうになったらまったく違うことやってみるとか、ユニット作るとか、誰かと組むとか、そういうことをやっているうちにいつの間にかこうなったというか。だから、充実しているんだろうなと。おかげさまで、今も喫緊の仕事に相当追い詰められていますけど、お話もずっといただきますしね、いろんな。それがでっかい大手企業のCMじゃなく、地方の企業のCMソングだとしてもちゃんとお金はもらえるし。そこは本当に意外でしたね。“青森へ行ったら青森価格なんじゃないか?”と思ったら、青森は青森でちゃんと出すと思ったら出すっていう人いっぱいいるんですよね」
──地方創生モデルになりそうですよね。
「本当にね、俺は“いつ取材くるのかな?”と思ってんですよ。全然来ないんだけどさ(苦笑)」
──でも、どんどんそういうふうになっていったら地方も賑やかになるし、いいですよね。
「そうですね。でもね、俺が思ってるのは、一回メジャーでやって、全国あちこち行って、いろんな人と会って、いろんなことやった知識と経験を持ち帰っているから、きっと意味があるし、面白いこともできているんだなって」
──そういう意味では正しきUターンっちゃ正しきUターンですよね。
「だから、タイミング的にね、本当にいいタイミングだったと思いますけどね」
──いろいろ試行錯誤しながら逡巡しながらだったけど、かなり理想的なところに来たという。
「上を見たらキリないですし、もっとこうしたいっていうのはもちろんいろいろあるんですけど、今は相当いい音楽生活を送らせてもらっていると思いますね」
TEXT:帆苅智之
アルバム『終わらない歌』
2000年発表作品
<収録曲>
01. Yellow
02. FREE
03. 弟
04. 愛の言葉
05. たからもん
06. 僕はどこへ行く
07. 傘
08. 世界中のすべての色 (アルバム・バージョン)
09. 人生劇場三文芝居
10. -Interlude-
11. 天使達の歌
12. 流れ星
13. レモネードデイズ
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