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この連載ではブルースのミュージシャンのアルバムもよく取り上げている。それだけブルースが今日のロックやR&B等に影響を及ぼしている源泉のような音楽であり、ブルースに触れたがためにギタリスト、シンガーになったミュージシャンも数多いというのもその理由のひとつかもしれない。で、影響力の強さ、エリック・クラプトンやキース・リチャーズをはじめとしたレジェンド級のアーティストらが畏敬を持って語る、ロバート・ジョンソンやマディ・ウォータース、さらにはハウリン・ウルフやジョン・リー・フッカー、ブッカ・ホワイト、バディ・ガイ、サン・ハウスら、この人たちの名が挙がるのは、これはまぁ当然というものだ。
その一方で、いわゆるロック系のアーティスト、ブルース好きからはその名を語られることはまずないが、フォーク系の人から尊敬を集め、頻繁に語られるのが、レッドベリーだったり、今回の主役、ミシシッピー・ジョン・ハート(以降、J.ハートと表記)の名前である。
実際に音源を聴いていただくと分かると思うが、J.ハートの演奏スタイルというのはロバート・ジョンソンやサンハウスら、デルタ・ブルースと紹介される人たちのような、12小節で構成される曲とも違うし、演奏スタイルも独特のタイミングで弦をはじいたり、ボトルネックを使ったスライド奏法などとは違い、スリー・フィンガーに近いものが大半だったりする。ヴォーカルも前者やハウリン・ウルフやチャーリー・パットン、ブラインド・ウィリー・ジョンソンのようなアクの強いものではなく、穏やかで、温かなものが伝わってくる。例外でレッドベリーなんかは、犯罪歴もあり、刑務所に入っていたほどであるから、どこかヴォーカルにも荒々さがあるが、J.ハートの素朴というか朴訥な声からは、厳しい時代を生きてきたものの諦観のようなものさえ感じさせる。ブルースには違いないが、そこから伝わってくるのはアメリカン・フォークソングだ。
それから、今回、J.ハートを取り上げようと思ったのは、先ごろ、ひっそりと劇場公開されたドキュメンタリー映画『American Epic Episode 1: The Big Bang』で彼のことが紹介されていたからである。映画はアメリカのポピュラー・ミュージックのルーツを探るべく、カントリー、フォーク、ブルース、R&B、ネイティブアメリカン、ハワイアン、ラテンといったジャンルへの発展を全4パートに分けて、5時間を越えるボリュームで描くもので、まず「Episode 1ザ・ビッグバン〜元祖ルーツ・ミュージックの誕生」が公開された。都市部でもごく限られたシアターでのみ公開されたようだし、あまりメディアも宣伝していないことから見逃した人も少なくないようだ。続編、さらにはサブスクリプションでの公開など期待したいものだ。製作総指揮には俳優ロバート・レッドフォードや音楽プロデューサーのT・ボーン・バーネット、ミュージシャンのジャック・ホワイトが名を連ねている。監督はバーナード・マクマホン、配給はマーメイドフィルム、コピアポア・フィルムとなっている。
J.ハートがこのドキュメンタリー映画でカーター・ファミリーらとともに紹介されたのには訳がある。少し、生涯をたどってみよう。
農作業のかたわら、 仲間のためにだけ弾き語った ブルースが運命の扉を開く
ミシシッピー・ジョン・ハートこと、ジョン・スミス・ハートは1892年、ミシシッピ州キャロル郡テオクという村で生まれている。その後移り住んだアヴァロン(Avalon)という村で生涯の多くを過ごし、1966年にミシシッピー州で74歳の生涯を閉じている。彼は9歳でギターを学び、若い頃はもっぱら農作業のかたわら、友人やダンスのために演奏して過ごした。音楽は余興であって、金になるなど考えることもない時代だった。
同郷にウィリー・ナムールというフィドル / バイオリン弾きがいて、時折、パートナー(シェル・スミス)が不在の時など、J.ハートが代わりに伴奏をすることがあったそうだが、ある時、ナムールが1928年にフィドル・コンテストで優勝してオーケーレコードで録音するチャンスを得た時に、彼がオーケーレコーズのプロデューサーにそれとなくJ.ハートのことを推薦したことから、思わぬ展開がJ.ハートに訪れる。その腕前を認められてJ.ハートもまたレコーディングのチャンスを得るのだ。この時にJ.ハートの名では平凡すぎるということで、頭に「ミシシッピ」をつけることになったらしい。
この1928年というのはカントリーミュージックの当たり年「The Big Bang」と呼ばれていて、ラジオの公開オーディションをきっかけにアメリカン・フォークの祖、カーター・ファミリーやカントリーミュージックの父、ジミー・ロジャースがデビューした年である。そしてJ.ハートもまた、デビューしたのだが、先に触れたドキュメンタリー映画でJ.ハートが取り上げられたのは、この1928年がキーワードになっているわけだ。この一年がアメリカ音楽の歴史のマイルストーン的なものになっていると言っていい。
そして、この時にオーケーレコードに録音した13曲こそが、今回ピックアップしたアルバム『アヴァロン・ブルース』なのである。アルバムは過去に何度もリイシューされ、現在はサブスクリプションでも聴くことができる。もっとも、1928年の録音時にはLPなど存在せず、SP盤でバラの状態で売られていたものを、その後、一枚のコンプリート盤としてまとめられたのが、現在出回っているものだ。
ともかく、農家の小作人で、終生自分は畑の上で過ごすのだと思っていたJ.ハートにとっては、レコードデビューをきっかけに人生が好転し、もしかすると好きな音楽で身を立てられるかと胸踊らせる日々だったはずだ。ところが、翌年1929年に全米、世界中を揺るがす大恐慌が起こる。繁栄に沸いたアメリカがどん底に突き落とされ、街に失業者があふれる。人々に娯楽に回せる金などあろうはずがない。その影響でせっかく録音したものの、結果はまったく商業的に成功せずに終わる。J.ハートは音楽の道を諦めてアバロンに戻り、再び農民として働きながら、たまに地元のパーティーで演奏したりして、日々暮らすことになる。
71歳にして、伝説の男、再発見される
それから34年の時が流れる。農地で働いていたJ.ハートは、ひとりの白人男性に声をかけられる。アフリカ系アメリカ人にとっては、大抵の場合、そのような状況は良いことがあったためしがない。以下はこちらの想像だが、こんなやりとりが交わされたのではないか。
訝しげに顔を上げたJ.ハートに、男は「あなたはミスター・ジョン・ハート、ミシシッピー・ジョン・ハートさんではありませんか?」と言った。「そうだ。そう呼ばれていたこともある」と答えると男は満面の笑みを浮かべて「探しましたよ。きっとこの村にいると思ったんだ」と続けた。男は怪しいものではないと前置きし、自分はトム・ホスキンズといい、ブルース研究家だと名乗った。ホスキンズは1952年に発売されたアメリカン・ルーツミュージックのコンピレーション『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』に収録されたJ.ハートの演奏(Frankie / Spike Driver Bluesの2曲)に感激し、当時36歳だったハートがもしかするとまだ存命ではないかと、行方を探していたのだ。「Avalon Blues」の中に、その町が自分のホームタウンだと歌う一節があることに当たりをつけ、ほとんど賭けのようなつもりでアヴァロンにやってきたのだった。そして村人からJ.ハートがいることを聞き出し、探りあてた畑で野良仕事にいそしむ彼を発見したのだ。
J.ハートは71歳になっていた。それでも彼が若い頃と変わらず、村の集まりやパーティーで歌い、ギターを演奏していること、その腕前がほとんど衰えていないことを知ったホスキンズはJ.ハートにレコーディングとコンサート話を持ちかけ、都市へ誘った。こうして今度こそ彼の人生は好転し、プロの演奏家としての道を歩き始める。
時はフォーク・リヴァイバル・ムーブメントの真っ只中。各地のコーヒーハウス、ライヴハウスなど、J.ハートの公演は評判を呼び、どこも盛況だった。テレビにも出演した。ピート・シーガーが案内役を務める番組のほか、中にはジョニー・カースンが司会をするゴールデンタイムの人気番組にも呼ばれた。
そうして招かれた1963年の『ニューポート・フォーク・フェスティバル』。この年のハイライトはふたり。ひとりは若き日のボブ・ディラン、そしてもうひとりはJ.ハートだった。7月27日(土曜日)、万雷の拍手を浴び、彼は大観衆の前で演奏する。音源を聴くと枯淡の域というか、不慣れな会場にあってさえ、いつもと変わらずマイペースな調子でフォークブルースを弾き語っている。この年は彼のほかにはブルース系アーティストとしてはジョン・リー・フッカー、ブラウニー・マッギー&サニー・テリー、ジョン・ハモンド(白人)ぐらいしか出演していないが、主催者はJ.ハートの反響の大きさにブルース枠を拡大し、翌年1964年には再度J.ハートを呼んだほか、マディ・ウォータース、スリーピー・ジョン・エステス、ジェシ・フラー、ミシシッピー・フレッド・マクドウェル、サンハウス、スキップ・ジェームスらを出演させている。
それから3年後、1966年11月2日、J.ハートは心臓発作で急逝してしまう。再発見されてからわずか3年という短い活動期間だったが、その間にヴァンガードレコードにオリジナルアルバムを3枚録音したほか、矢継ぎ早にコンサートがブッキングされ、まるで今でいうロックスターなみのハードスケジュールでライヴをこなしていたようだ。多くは車で移動していたのであろうから、老齢の身に結構こたえたのかもしれない。それでも、きっとJ.ハートという人は自分の歌を聴きたいと思ってくれている人がいるのならと、エージェントの無理なブッキングにも特に不平も言わず出かけていくような感じだったのではないか。なにせ、諦めていた音楽で旅ができ、飯まで食えているのだから。
日本のフォークシーンにも 多大な影響を残したJ.ハートのスタイル
私は特に60年代のフォークリヴァイバル・ムーブメントを実体験しているフォーク系ミュージシャンの多くが、ミシシッピー・ジョン・ハートに影響を受けて…という発言をしていることに興味があり、何人かのアメリカ人アーティストにインタビューをしている。それらは自著『小さな町の小さなライヴハウスから-電子版』(万象堂刊)に詳しいが、ジョン・セバスチャン(元ラヴィン・スプーンフル、♬「Welcome Back」の全米No.1ヒットがある)にJ・ハートの影響について質問をぶつけてみると、南部出身のブルースのミュージシャンの表現やスタイルにはなかなか白人には理解し難いものが少なくなかったのだという。性的に露骨な表現もあったり、彼ら独特の風習に関することが歌われていたり、宗教観についてなど、内包するそれらを理解しないまま単純にそれを真似るのはためらわれた。それに対してJ.ハートのやっているブルースは自分たちにも理解できるものが多かったのだという。また、穏やかな歌声は彼の性格そのもので、実に温厚な人だった…というようなことを語ってくれたことを覚えている。極めてフォーク寄りであったJ.ハートが広く受け入れられたのには、そんな理由があるようだ。
そのJ・ハートの影響力は海を隔てた日本にも及び、60年代後半のフォーク黎明期に彼のギタースタイルは多くのフォークシンガーのお手本になっている。特に大きな影響を受けているのが、あの高田渡である。デビュー前の高田が京都で暮らしていた時分、ヴァンガードレコードから出たJ・ハートやカーター・ファミリーのレコードを擦り切れるほど聴いていたことなど、当時本人と付き合いのあったフォークシンガーの古川豪氏から聞いたことがある。そう、あまり語られないが、実は自身による作詞作曲の少ない高田渡は、その多くの曲をJ・ハートやカーター・ファミリーに求めている。彼らの作ったメロディーに国内外の詩人の詩を歌詞につけるというのが高田渡のひとつのスタイルで、あの代表曲の「生活の柄」などもカーター・ファミリー経由で知ったトラッドの「When I’m Gone」という曲に山之口貘の詩をあてたものである。とはいえ、アメリカンフォークをこれほどに趣き深いものにアレンジし、それを類稀な表現力で、ある意味オリジナルのように歌った高田渡氏はやっはりすごいものだし、J・ハートを、さらにはアメリカンフォークを日本のフォークシーンに浸透させた功績というのも大きいと言える。
再発見後、しかも最晩年の枯れた味わいのアルバムも絶品だが、1928年の絶頂期をとらえたJ.ハートの『アヴァロン・ブルース』、高田渡のアルバムとともにぜひ聴いてみてほしい。
TEXT:片山 明
アルバム『Avalon Blues』
1928年発表作品
<収録曲>
1. フランキー/Frankie
2. ノーバディズ・ダーティ・ビジネス/Nobody’s Dirty Business
3. エイント・ノー・テリン/Ain’t No Tellin’
4. ルイス・コリンズ/Louis Collins
5. アヴァロン・ブルース/Avalon Blues
6. ビッグ・レッグ・ブルース/Big Leg Blues
7. スタック・オ・リー/Stack O’ Lee Blues
8. キャンディマン・ブルース/Candy Man Blues
9. ガット・ザ・ブルース/Got the Blues (Can’t Be Satisfied)
10. ブレスド・ビー・ザ・ネイム/Blessed Be the Name
11. プレイング・オン・ジ・オールド・キャンプ・グラウンド/Praying on the Old Camp Ground
12. ブルー・ハーヴェスト・ブルース/Blue Harvest Blues
13. スパイクド・ライヴァー・ブルース/Spike Driver Blues
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