森山直太朗というシンガーソングライターの奥深さを1stフルアルバム『新たなる香辛料を求めて』で痛感

2022年3月16日 / 18:00

MVで丸刈りの本人が踊っている姿も強烈な「愛してるって言ってみな」の先行配信に引き続き、3月16日に森山直太朗デビュー20周年のオリジナルアルバム『素晴らしい世界』がリリースされた。前作『822』から4年振りの新作。この4年間(この2年間は特に)世界で起こったことは決して“素晴らしい”と言い切れるものではなかったわけだが、そこでこのタイトルを付けたところに、すでに森山直太朗らしさを感じるところである。そんな彼のアーティスト性は、初のフルアルバム『新たなる香辛料を求めて』から如何なく発揮されていたように思う。
森山直太朗は君に語りかける

シングル「夏の終わり」がリリースされたあとだったか、このアルバム『新たなる香辛料を求めて』が発表されたあとだったか忘れたけど、いずれにしても、森山直太朗が世間に広まり始めた頃のこと。とある方から“このさわやかさ…お前は絶対に聴かない音楽だろうなぁ”としみじみと言われたことがあった。“お前に似合わない音楽だな”だったかもしれない。その方はほんの冗談半分で言ったのだろうけど、今以上に極端に心の狭かった自分は“森山に罪はないが、そう言われるならこのアーティストは一生聴かないことにしよう”と心に決めたのであった。何なら“森山直太朗聴くべからず”を家訓して代々伝えていこうかと思ったほどだ。森山直太朗と聴けば真っ先に思い出す個人的なエピソードである。だが、こうして原稿を書く仕事をしている以上、そんなことも言っておられず、家訓を作ろうとした人間が自ら家訓を破る羽目になったわけで、何とも因果なものであると、しみじみと感じたところであるが──。

と、そんな冗談とも付かない話はさておき、初めて『新たなる~』を聴いて、少なくともこれはさわやかなアルバムではないし、森山直太朗というアーティストも当時の見た目やその歌声に反して、決して“さわやか”だけで括られるものではないことは確信した。ハイトーンに突き抜けるメロディーラインと(巷間で耳にする限り)強い癖があるわけではない声質。「夏の終わり」にしても、「さくら(独唱)」にしても、日本らしい叙情性を日本ならではの季節感に重ねているのは間違いないし、百歩、二百歩譲って、それらをさわやかな楽曲と思考停止するのも分からなくもない。大衆歌にはそういう側面もあろう。しかしながら、少なくとも『新たなる~』で示されていることは、何も考えない…とは真逆と言えるものであろう。本人が声高にそう言っているわけではないけれど、このアルバムは“考えろ”とリスナーに問うている。“考えろ”は“考えてみてください”でもいい。もしかすると、聴いた人が自然と考えて、何かに思いを巡らせる──そんな仕掛けが施されているアルバムという見方もアリかもしれない。いずれにしても随分と硬派な作品と言えるのではないか。これは私見であって、しかも生粋のファンにしてみれば“何を分かり切ったことを?”と訝しがられることかもしれないが、以下、その辺りに主眼をおいて、この『新たなる香辛料を求めて』を紐解いていきたい。

オープニング、M1「太陽〜邂逅編〜」。4thシングルにもなったこのナンバーは《ちょっと一曲歌わせて 今訊いておきたいことがある》で始まる。まさに問いかけだ。そして、サビではこんなことが綴られている。

《この真っ白いキャンバスにあなたなら何を描きますか “自由”という筆で/目眩く些細な悩みは とりあえず今は置いておいて/そのうち忘れればいい》《花咲き誇るこの小さな列島にこれ以上何を望みますか 殿様じゃあるまいし/透き通る風に誘われて土筆の子供が顔を出した いつかのあなたのように》(M1「太陽〜邂逅編〜」)。

ここでもまた問いかけているし、聴いた人それぞれにその答えを考えさせているようでもある。何に向けてそう言っているのか分からないけれど、やや批判的な文脈も見て取れる。バンドサウンドでありつつも、メロディーを崩して歌うトーキングスタイルで、前半(Aメロ)はフォークソング的と言ってよかろう。しかしながら、サビはメロディアスで、伸びやかな箇所はソウルっぽくもある。これを米国音楽のハイブリッド…と言うのは考えすぎかもしれないが、変にトラディショナルなものにこだわっていないことは伺える。後半で若干サイケデリックロック風なサウンドが聴こえてくることからもそれは分かるし、彼自身、文字通り、“自由”という筆を走らせている。さわやかではない…と言い切れるものではないけれども、さわやかとも言い切れない。そもそも、そういった観点で語られるような楽曲ではないのかもしれないとも思う。ちなみに、「太陽」のMVは、彼がチンドン屋風のスタイルで日の丸をバックに歌い始め、そのまま人の多い商店街(谷中銀座商店街らしい)を歩き出すという内容。1シーン1カットで、これも随分と示唆に富んだものではないかと思う。MVを観た限りでも、この人は耳障りがいいだけの音楽を発信していないことは分かる。

続くM2「紫陽花と雨の狂想曲」が、これがなかなかの曲者だ。イントロはロック的というかアッパーなバンドサウンドで、《紫陽花と雨の狂想曲》のコーラスが印象的に鳴る。聴き進めていくと、Bメロで“PPPH”が入ってもよそうなリズムとなることから、アイドルポップスを意識しているようではある。そう考えると、歌い方もシアトリカルというか、おどけているように思える。梅雨時の話であることは差っ引くとして、タイトルからもこれはさわやかと言っていい楽曲ではないかとの想いが過る。…と思ったのも束の間、歌詞が以下のように展開していき、さわやかではないどころか、穏やかではないことに気づかせられる。

《名前も生い立ちも知らないのに/赤い糸が見えているのだ》《こうなったら 仕方ないや/後を付けて君を護るよ 花柄のオールスター》《君の家の灯りが消えた後 お迎えに行くよ 僕らロミオとジュリエット(笑)/忍び足で君の眠る部屋のドアを開けたら》(M2「紫陽花と雨の狂想曲」)。

ストーカー? 変質者? 実はかなり恐ろしい話ではある(と思う)。この楽曲も後半でサイケっぽいサウンドが聴けて、アウトロ近くでどんどんバンドアンサンブルも混沌としていくが、それは歌詞の内容にマッチさせた気持ち悪さの演出でもあるようだ。事ここに至っては、本作を聴く以前に生じていた“森山直太朗はさわやかか否か”の観点はもはや度外視していいことに気づく。このアーティストが提示しているのはそういうことではないのだ。彼はサラッと聴けるJ-POPばかりを提供するシンガソングライターではない。時には毒を盛ることすらある。このアルバムは冒頭2曲でそれがはっきりする。
随所で感じる新進気鋭の芸術性

もっとも、プロテストソングよろしく世間への告発だけに主眼を置いているわけではないことも、これまた明白である。M3「愛し君へ」はピアノバラード。彼らしいハイトーンを聴かせるメロディアスなナンバーで、歌詞もストレートな内容のようだ。トーキングスタイルのM4「旅立ちの朝」はオルガン入りのバンドサウンドだが、そうアツアツで迫っていないのがポイントであろうか。サビメロもキャッチーでありつつ柔らかく、歌詞の表現方法も普遍的で時代性を感じない。M5「青春のメモワール」はボクサーを主人公に据えた内容。ブルージーなエレキギター、Cメロでの深めのディレイ、アウトロ近くのストリングスで盛り上り…など、シアトリカルなサウンドメイキングも物語になぞらえたものだろう。バラエティー豊かだ。メッセージ性だけを標榜しているわけではなく、メロディー、サウンドと併せてトータルで楽曲をクリエイトしているミュージシャンである。

…と、少し油断(?)していると、M6「例えば友よ」で再び森山直太朗の何たるかを突きつけられる。ケルトミュージック風の音使いでミディアムテンポ。リズムは3拍子っぽい。何だか楽し気だ。フォーク然としたメロディーではあるが、やはりハイトーンが響くところも随所にあって、ここまで聴いてくると、自分のような“森山直太朗弱者”でもその歌唱に慣れてくるというか、ちょっとした安心感のようなものを抱くから不思議だ。そのM6「例えば友よ」はこんな歌詞だ。

《今僕らは 変わらない時代の尖端で/戸惑いながらも 未来へと続く扉を叩く/例えば友よ 隣の芝が気になったら/よく見てみろよ 何もないだろ》《今僕らは 慌ただしい歴史の隅っこで/はにかみながら 夜な夜なコンビニで立ち読みしてる/例えば友よ 誰かに詰られたとしても/詰り返すことなかれ 限がないから》(M6「例えば友よ」)。

プロテストソングとも言えるし、カウンターカルチャーでもある。フォークでもあるし、ロックと言うこともできるだろう。《コンビニで立ち読み》と時代性をサラッと入れているところも見逃せない。弾き語りスタイルでのパフォーマンスも少なくなく、昭和にもあったようなこの楽曲タイトルからしても、いわゆるフォークシンガーと見られてもおかしくなかっただろうし、そう見るリスナーもいたかもしれないが、こうした時代性の取り込みからは、彼の新進気鋭っぷりが如何なく感じられる。少なくとも懐古主義的なシンガソングライターではないことをダメ押しされるようだ。
アーティストとしての姿勢も露呈

ミディアム~スローで室内弦楽的なストリングスがあしらわれたM7「声」。やはりケルト音楽っぽいM8「生きとし生ける物へ 〜アルバム・エディット〜」では、バグパイプ(たぶん)だけではなく、笑い声や呼吸音なども取り込んで、独特のサウンドを作り上げており、前述した“トータルで楽曲をクリエイトするミュージシャン”を再確認することになる。M7が《この声が この声が/いつの日か あなたに見える日まで/光の庭で 永遠に唄うよ》で終わり、M8は《もはや僕は人間じゃない》で終わる。ともにこの世の者ではないことを示していて、M7→M8と連動させている。しかも、この2曲は前者が4thシングルで後者がその次作5thでもあった。アルバム以前から連動を考えていた節はある。だとすると、楽曲どころか、アーティストとしての立ち方、見せ方などもすべてトータルで司っている人ではないかと思わせるし、おそらくそういう人物なのであろう。まったくもって、みくびれない。

M9「革命前夜、ブラックジャックに興じる勇者たち」はオルゴールと波や風の音をバックにしたポエトリーリーディング。言葉は平素だが、はっきりと掴める物語性、メッセージ性は感じられず、内向的な世界が広がる(“凝縮される”と言ってもいいか)。続くM10「今が人生」はのちにシングルカットされたナンバー。いわゆる“カノン進行”で我々には親しみやすいメロディー展開ながら、ゴスペル風味強めのブラックミュージックに仕上げているのは、新進気鋭のシンガソングライターの面目躍如と言えるだろうか。そんなゴージャスなM10に続いて、アルバムのラストを締め括っているのがM11「なんにもないへや」だ。録音方法を変えているそうで音の質感が異なるが、その生々しさが何とも意味深だし、フィナーレに相応しいとも思う。M10、M11はそれぞれこんな歌詞が印象的だ。

《今こそが人生の刻 満ち満ちる限りある喜び/風立ちぬ不穏な日々の只中で 僕は何か思う》《何もないこの世界は 時を経て何処へと行くのだろう/風薫る儚き現の向こうに燃ゆる 陽炎のように/蜃気楼のように 走馬灯のように》(M10「今が人生」)。

《なんにもないへやのなかにぼくは/とりとめのないいきるいみなんぞをさがしてしまうんだよ》《いつかときがきたら ぼくはへやを このへやをすて/まちうけるこんなんなひびのなかを/やるかたないかおであるいていくんだよ》《まちうけるこんなんなひびにぼくは/かけがえのない仕合せをかんじていくんだよ》(M11「なんにもないへや」)。

本稿冒頭でこの『新たなる~』を、聴いた人が何かに思いを巡らせる仕掛けが施されたアルバムであると述べたが、その見立てはどうやら大きく間違ってはいなかったようである。そもそも森山直太朗自身も戸惑いを隠していない様子で、自説をリスナーに説いているというよりは、その逡巡自体を共有したいという意図があったのかもしれない。本人にインタビューしたわけじゃないので真意は分からないけれども、サラッと聴けるJ-POPではないことははっきりしたように思う。そればかりか、邦楽の歴史に確実に楔を打ち込んだ名盤であろう。何気ないひと言で、本作ならびに森山直太朗というアーティストの作品に触れることを拒み、今頃ようやく本作のすごさに気付いたことを恥じるばかりである。
TEXT:帆苅智之
アルバム『新たなる香辛料を求めて』
2004年発表作品

<収録曲>

1.太陽〜邂逅編〜

2.紫陽花と雨の狂想曲

3.愛し君へ

4.旅立ちの朝 〜アルバムバージョン〜

5.青春のメモワール

6.例えば友よ

7.声

8.生きとし生ける物へ 〜アルバム・エディット〜

9.革命前夜、ブラックジャックに興じる勇者たち

10.今が人生

11.なんにもないへや


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森山直太朗

静岡2013/12/15

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