かぐや姫、その真の姿を『かぐや姫LIVE』で確信

2021年9月8日 / 18:00

南こうせつが2年半振りのオリジナルアルバム『夜明けの風』をリリースしたということで、今週は氏のキャリアのスタート地点、かぐや姫のライヴアルバムを取り上げる。本文でも書いたが、特にこうせつ氏の柔和の印象と、巷で言われている“四畳半フォーク”的なイメージで、勝手に“ザ・フォーク”なグループだと思っていたのだが、本作を聴いて驚いた。このグループのメンタリティーはパンクに近いと思う。
シングル「神田川」が大ヒット

先週のチューリップに引き続き、自分はかぐや姫をリアルタイムで聴いていた世代ではないので、まずはグループの成り立ちを軽く調べるところから本稿作成の準備を始めてみたのだが、思いのほか、かぐや姫が硬派なグループであることを知った。これもまた先週に引き続き、生粋のファンの方々にとっては“何を今さら…”という話だろうが、その辺はご容赦いただいて、筆を進めさせてもらいたい。

“硬派”という言い方が正しいかどうか分からないし、“思いのほか”というのも主観であるから、まず、筆者のかぐや姫に対するイメージがどうであったかを軽く述べておかなければならないだろう。自分にとってかぐや姫と言うと“ザ・フォークグループ”である。メンバーは3人。南こうせつ(Vo&Gu)、伊勢正三(Vo&Gu)、山田パンダ(Vo&Ba)(調べて分かったことだが、このメンバーでのかぐや姫は第2期とのこと)。基本的なスタイルはドラムレス──つまり、ビートはなく、アコースティック楽器の伴奏で歌う。歌詞は概ね日本語で、物語性が強く、日本独特と言える情緒の成分も多い。主旋律の音符ひとつひとつに丁寧に言葉が乗っている。そんな感じだろうか。漠然とした印象をもうひとつ付け加えるなら、あらゆる方面にフレンドリーなグループというイメージもある。それは、こうせつ氏をはじめとするメンバーの柔和な表情を、今に至るどこかで見ているせいだろう。もしかすると、そんなかぐや姫に対するイメージを自分と共有してくれる人も少なくないかもしれない。

ただ、そんなイメージからすると意外に感じたのは以下の記述。少し長めだが、引用させてもらう。[シングル『神田川』(中略)は、最終的に160万枚を売り上げる自己最大のヒット曲となる。この年NHK紅白歌合戦に出場の話が来るが、歌詞に登場する「クレパス」が商標であることから、「クレヨン」への変更を要請され、出演を辞退。「神田川」は後に東宝において映画化されるが、主役のイメージが歌と大きく違いすぎたと南こうせつは話している]。さらに[その次のシングルとして南こうせつが考えていたのは「22才の別れ」か「なごり雪」であったが、すでに映画化が決まっていたためレコード会社側が一方的に決めた「赤ちょうちん」をリリース。(中略)その後も映画化の話が絡み「妹」がシングルになるなど、アーティストの意思が無視されることが続き、それが原因で解散が早まったという]とある。

紅白歌合戦出場辞退? 映画と歌とのイメージが違いすぎたという話はまだしも、アーティストの意思が無視されたことが原因で解散? 第2期かぐや姫の活動概要をまとめたものを見ただけでもその波乱万丈さを察するし、それと同時に、彼らがそこに抗っていたことがよく分かる。その姿勢はロック、あるいはパンク的と言ってもいいし、インデペンデント精神も感じられる。上記で引用した文章の引用元を遡ってみると、シングルではなく、アルバム中心のグループを目指していたこと、ライヴ指向であったことを、こうせつ氏が語っている記述も見つけた。1973年の邦楽シーンと言うと、シングルの年間売上は、1位:宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」、2位:宮史郎とぴんからトリオ「女のねがい」と、まだまだ演歌、歌謡曲中心ではあったわけだが、そんな中、かぐや姫は当時のメインストリームとは異なる方向を見ていたグループではあったと言える。同時期のアーティスト、吉田拓郎やGARO、井上陽水らと並んで、邦楽シーンの変革者であったと言っても過言ではないかもしれない。フォークグループではあったのだろうが、凡百のそれとはまるで性根が違ったようだ([]はWikipediaからの引用)。
グルービーなバンドサウンドを展開

さて、そんなかぐや姫の作品から一枚を選ぶとなると、「神田川」が収録された『かぐや姫さあど』(1973年)を挙げるのが真っ当なチョイスなのだろうが、こうせつ氏がかぐや姫をライヴ指向であったと語っているわけだから、ここは『かぐや姫LIVE』でいくのがいいように思う。「赤ちょうちん」は入っていなくて、「22才の別れ」が収められており、件の反骨心のようなものも垣間見える。グループのメンタリティーも知ることが出来よう。というわけで、以下、『かぐや姫LIVE』収録曲を順に解説していく。

オープニングはM1「うちのお父さん」。あれは南こうせつのソロで歌っていたのか、NHK『みんなのうた』で流れていたような記憶もあるが、いずれにしても、元はかぐや姫のナンバーであったことを今回初めて知った気がする。ギターもハーモニーも綺麗に録れている。高音っぽい響きはマンドリンだろうか。かなり印象的な鳴りを聴かせる。ベースがいいうねりを出していて、それだけにドラムがそれほど前に出ていないのは若干残念なところではあるが、かぐや姫は3人編成のフォークグループではあるものの、ライヴではバンドサウンドを、しかもかなり本格的なアンサンブルを取り入れていたことがアルバム冒頭からよく分かる。楽曲自体は牧歌的な雰囲気ではあるけれども、そこに留まらない魅力がある。間奏で“ヘイ、カモン!”とバンド(あるいは客席)を煽っているところも意外に思えるし、後半の《明日天気になあれ》をハイトーンに延ばすところは、いかにもライヴっぽくていい。また、《今日は渡辺さんの 結婚式で/うちのお父さんが仲人で/めでたい めでたい 鯛のお頭付》や《今度お母さんが 街に出る時に/真赤な蝶ネクタイを 買ってもらったら》辺りの歌詞には、今となっては失われた日本の風景があるようでもあって、興味深いところではある。

続く、M2「僕の胸でおやすみ」、M3「ペテン師」でライヴならではのバンドサウンドがさらにヒートアップ。M2は2番からリズム隊が入って徐々に音が厚みを増していき、後半はかなりグルービーなサウンドとなっていく。歌メロこそフォーキーだが、これはもう単なるフォークソングではないだろう。オルガンの他、間奏ではフルート(多分)も聴けるし、楽曲寄りのアレンジが成されていることが確認出来る。M3に至ってはイントロもメロディーも、全てがフォークの粋を超えているように思う。イントロのギターリフ、オルガンの鳴りがワイルドだし、ドラムもさらに力強く出ている気がする。調べたら、ドラムを叩いているのは、なんと村上“ポンタ”修一だった。それであれば、もうこのサウンドには納得するしかない。M3は歌詞もだいぶロックな印象だが、これは他の楽曲とまとめて後述したい。

そこから一転、M4「加茂の流れに」では、ギターのアンサンブルを中心とした落ち着いたサウンドで、マイナーというか、純和風なメロディーをしっとりと聴かせる。筆者は「花嫁人形」を連想したが、古い日本の民謡や童謡を感じさせる旋律とコード感であって、歌詞は七五調。ロックに続いてこういうこともできるというのは、かぐや姫の懐の深さではあろう。いい意味で驚いたが、その衝撃はさらに続く。M4のあとで、ギターをチューニングする音に重なってMCが収録されているが(ここのMCはパンダ氏?)、その後のM5「君がよければ」がこれまたなかなかすごい。ビートの効いたナンバーで、M3、M4からの緩急を考えたのだろうが、ブラスも女性コーラスも入り、これはほとんどソウルミュージックと言ってよかろう。そこからさらにM6「カリブの花」へ続くが、こちらはタイトルどおり、カリプソだ。M5、M6共に歌のメロディーはフォーキーで、歌詞の乗せ方も含めて、変に複雑ではないため、マニアックな感じには聴こえないのだが、この多彩さは特筆すべきところだと思う。

そして、次がM7「22才の別れ」。渋めイントロから綺麗なギターのアンサンブルが鳴り、そこにエレピも重なって、リズム隊も響く。相変わらずベースもブイブイと鳴っているし、間奏のギターもブルージーだ。これまで聴くとはなしに耳にしていて、何の根拠もなく、フォークソングらしいアコギの響きで構成されたナンバーだという気になっていたのだが、実にうまく練られたバンドアンサンブルであることが分かった(己のうすぼんやりとした認識を反省したい)。とりわけアウトロ近くでサウンドが密集し、全体的に圧が強くなってく箇所は、歌詞の主人公の心象風景と関係しているかのような印象で、優れたショートフィルムを見るかのようであることも付け加えておきたい。
それまでのイメージを覆された歌詞

M8「妹」からはLP盤でのB面。A面の収録曲はバンドサウンドものだったが、B面は3人のアンサンブルで構成された楽曲を収録している。ただ、だからと言って、音像が地味かというと、まったくそうではないことがM8からいきなり分かる。聴きどころは、3番の後半──《明朝お前が》以下で、それまでアルペジオだったギターがストロークに変わるところだ。明らかに演奏がエモーショナルで、熱が入っていくことが感じられる素晴らしいテイクである。間奏の物悲しくもポップな旋律も、M8「妹」の物語を象徴しているようでもあり、派手さがないことは楽曲にとってマイナスにならない──それどころか、奥行きを増すことを証明しているようでもある。話は前後するが、イントロがなく、歌から入ることで、観客が“待ってました!”とばかりに拍手を贈るところも、ライヴならではの光景であって、とてもいい。

チューニング音とMC(このMCはこうせつ氏?)、そしてMCの中で「海」なるナンバーが披露されたあと(この「海」は収録曲としてカウントされていないようだ)、M9「星降る夜」、M10「置手紙」、M11「眼をとじて」、M12「あの人の手紙」と続く。この流れからも、ほぼ3人だけのアンサンブルといっても、単調にはならないことがよく分かる。ザっといくと、M9はカントリーブルース寄り、M10「置手紙」はマイナー調、M11「眼をとじて」はポップなアメリカフォーク、M12はウエスタン(スパニッシュと言ってもいいかも)と、全体的には米国音楽からの影響が色濃いものの、曲毎にしっかりと個性があって、アルバムに収めた際も起伏が生まれている。グループの特徴が分かるとともに、ここでもまたその懐の深さ、ポテンシャルの確かさがうかがえるところだ。ラストはM13「神田川」。アンコールを求める拍手からMCを挟んで披露される。か細いギターの音が重なり合うアンサンブルが歌詞の世界観にジャストフィットしていることを感じて、日本のフォークソングや昭和という時代を象徴するナンバーであることを改めて強く思う。邦楽シーンの名曲であることは疑うまでもない。

…と、ザっと解説してみても、それまでぼんやりと思っていた、かぐや姫のイメージが、いい意味で覆されたのだが、最も衝撃的だったのは以下の歌詞だ。それまで抱いてきた、かぐや姫の印象は、これで完全に変わった。

《その男は恋人と別れた/さよならの口づけをして/髪の毛をやさしくなぜていた》《その時男は心のどこかで/赤い舌を出して笑った》《そうさ男は自由を とりもどしたのさ/そうさ男は人生の ペテン師だから/このいつわりも いつの日にか/ありふれた想い出に すりかえるのさ》(M3「ペテン師」)。

《ぼくのほんのひとことが まだ二十前の君を/こんなに苦しめるなんて/だから行く先は ぼくの友達に聞いてくれ/君に会わないで行くから/今頃は ぼくも また昔のように/どこかの町のカフェテラスで/ビールでも飲んでいるだろう/君が帰る頃は 夕暮れ時/部屋の明かりは つけたままで》(M10「置手紙」)。

《あなたのやさしいこの手は/とてもつめたく感じたけど/あなたは無理してほほえんで 私を抱いてくれた/でもすぐに時は流れて あの人は別れを告げる/いいのよ やさしいあなた 私にはもうわかっているの/ありがとう私のあの人/本当はもう死んでいるのでしょう/昨日 手紙がついたのあなたの 死を告げた手紙が》(M12「あの人の手紙」)。

M7「22才の別れ」でもその雰囲気が感じられ、深読みすればM13「神田川」もそこにカテゴライズされるかもしれないが、いくつかの歌詞で見られるのは理不尽にも思える別れだ。いや、“理不尽にも思える”ではなく、ある方向からは完全に理不尽としか思えない別れが描かれている。この辺は、フレンドリーでもないし、まったく柔和な感じはない。特にM3、M10は今となってはコンプライアンス的に“?”な感じがしなくもないし、見方によっては空恐ろしくもある。これらがどういう背景から導き出されたのか。今回、『かぐや姫LIVE』でほとんど初めてかぐや姫を聴いた者には、それを推測することすらできないけれど、冒頭で“かぐや姫が硬派なグループであることを知った”と言ったが、かぐや姫は硬派ところではない。無頼派と言ってもいいアーティストだったのではないかと想像した。いつか、メンバー3人のソロワークも取り上げてみたい。考察はまだまだ続く。
TEXT:帆苅智之
アルバム『かぐや姫LIVE』
1974年発表作品

<収録曲>

1.うちのお父さん

2.僕の胸でおやすみ

3.ペテン師

4.加茂の流れに

5.君がよければ

6.カリブの花

7.22才の別れ

8.妹

9.星降る夜

10.置手紙

11.眼をとじて

12.あの人の手紙

13.神田川


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