林原めぐみ- Key Person 第13回 –

2021年4月20日 / 12:00

林原めぐみ (okmusic UP's)

結局、何を作るにしても 大事なのは人間力

J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』。第13回目は1991年の歌手デビューから今年で30周年を迎えた林原めぐみ。86年に『めぞん一刻』でアニメデビューし、声優・シンガー・ラジオDJなど、多岐にわたって活動してきた彼女の仕事の軸にある想いを訊いた。
最初は華々しいものではなく 今後の道筋もなかった

──林原さんは小学生の時に映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年公開)を観て、声優という職業を初めて意識するようになったそうですが、その当時はどんなお気持ちでしたか?
「平たく言うとショックでした。アナライザーというロボットがいるんですけど、それが実際にしゃべってるんだと思っていたのに“人なの!?”って。アナライザーを演じられているのは緒方賢一さんで、今では共演も多く、大好きな大先輩ですけどね。当時は声優という職業がクローズアップされることは特にはなかったので、魔法少女アニメの最終回で“次はあなたの学校に転校してくるかもしれません”と言われたら、本気で来るのかと思ってしまうくらいピュアで(笑)。映画のパンフレットに声優さんの顔写真が載っていて、森 雪さんも古代 進くんも全員大人が声を当てているのがあまりに衝撃的すぎて、“私が今まで観ていたアニメって全部人だったの!?”と混乱するわけですよ。だんだんアニメ雑誌が刊行され始めると、“この声とこの声は同じ人なんだ”と知るようになって、そこからズブズブにハマっていき、アニメを観ていても声ばっかり気になっちゃってましたね。大人の女性が男の子の声をやっていることにも驚いたし、探究してました。」
──ショックを受けてもアニメを嫌いになることはなかったんですか?
「それは不思議となかったんです。別の角度というか、今まで観ていたアニメにもっと奥があったことが面白くて、アニメを観ながらどの声優さんなのか当てたりして、もう声優オタクの始まりですよね(笑)。もちろんその後も『ヤマトよ永遠に』(1980年)を観て涙しましたし、ストーリーとして観る能力も失ってはいないんですけど、エンドテロップも気になるようになりました。」
──そんな声優ファンだった林原さんですが、高校卒業後に声優養成オーディションを受けて特待生として合格し、急速に人生が変わっていったんですよね。
「実際は養成所に入っても週に一回通うだけで、普段は学校に行っていたから最初はお稽古事の延長みたいな感じだったんです。特待生というものの、一期生だったから先輩もいなくて、今後どうなっていくかの道筋もありませんでした。一緒に養成所に入った人の中には、大学生やテーマパークのダンサーがいたりと、声優志望の方だけじゃなくいろんな人がいたんですよ。稽古場は畳でしたし、掃除している人が社長だったりして、そんな華々しいものではなかったので、そこで声優になれるという感覚は正直なかったですね。でも、講師に千葉 繁さんが入ってきてくださって、本物の声優さんと触れ合いながら心の作り方を学んでいくうちに“まだ人生で一度もやったことがないことをやっているんだ”という実感が湧いてきました。そういう訓練をし始めて、より“本当に声優になれたらいいのにな”っていう気持ちになっていきました。」
──オーディションを受けた当初は勢いもあったそうですが、プロとしてやっていく自覚が芽生えたきっかけはありましたか?
「養成所生の頃に富士急ハイランドのスケートリンクで、深夜DJをやったことがあるんですけね。みなさんのリクエストにお応えして園内で曲をかける仕事で、その時はまだ学生のアルバイトみたいな気持ちだったんです。仕事中に何かを間違えて注意をされて“でも、私たちプロじゃないし”って言ったらものすごく怒られて。“君たちが養成所の人間でプロじゃなくてもこっちは金払ってんだ! お金が発生した時点で君たちはプロなんだよ”と言われてから、意識改革のスイッチがパッーチンと入ったというか。プロじゃないっていうのは謙遜のつもりで言ったことだけど、“一人前じゃなくても現場に入ったらプロなんだ”って目が覚めました。」
歌詞は台詞ではないけど、 表現に音符がついただけ

──その後、声優業に専念する中で歌手としてもシングル「虹色のSneaker」(1991年3月発表)をリリースされますが、“声優は裏方として声をあてる職業”という意識が強い林原さんにとって、歌手デビューには戸惑いもあったのではないでしょうか?
「戸惑いだらけでしたね。歌うことは自分の目指したところではなかったし、ミーハーな感覚でレコーディングスタジオに行って、自分のために曲が作られていくのが社会科見学をしているようで、ずっと続くものとは思っていなかったんです。“そういうお仕事がきたから、今の私は全力でやるだけだ”という感覚で。でも、レコーディングで““青空……”の“ら”を歌い切ったら倒れてもいいくらいの気持ちで伸ばして”とか、“もっと青空は高いところにあるよ”“あなたの空はどの辺にあるの?”と言われて、歌うってこともちょっとお芝居に似ていたんですよ。歌詞は台詞ではないけど、表現に音符がついただけなんだって思うようになって、歌手デビューではなく“歌で何かを表現する”という扉が開いた感覚ですね。自分を卑下するわけではないけど、私は歌唱力が抜群にあるわけじゃないし、当時のプロデューサーの大月俊倫さんもそこを求めていたわけでもなくて。ものすごく練習して歌った時に“つまらない。上手に歌えても売りものにならない”って言われたことがあったんですよ。その時は“こんなに練習してきたのに!”って思ったんですけど、“歌がうまい人が歌手なら、音楽の先生はみんな歌手でしょう。あなたに求めているのはそんなことじゃないんだけど”と言われた時に、“じゃあ、何を求められているんだ?”と考えたんです。もっと歌詞の住民になって、悲しみを伝えたり、喜びを分かち合ったりすることが大切なのに、私は何で音符を読んでいたんだろうって気づいて、おぼろげながら“声優が歌うジャンルって、この先あってもいいのかも”と思いました。舞台俳優の方たちが歌を収録したCDを出して、その舞台を観た人が聴いて号泣するような。そしたらすでに大先輩の水島 裕さんや三ツ矢雄二さんもやってらしたので、自分はその継承であり、歌手として世に出るのではなく、声優として、歌というかたちで表現するという感覚になったんです。」
──戸惑いだらけだったところから、自分が歌うことが腑に落ちていったと。
「そうですね。だから、『小さなアヒルの大きな愛の物語 あひるのクワック』のエンディング「ハッピー・ハッピー」はアヒルっぽく歌ってみたり、キャラクターソングは声を作って役で歌ったりと、林原めぐみであり、林原めぐみではない。クワックくんが歌ってる、らんまが歌ってるっていう、キャラクターソングというものが生まれた気がします。」
──どんな意気込みで歌手活動に向き合っていたのかをおうかがいしようと思っていたんですけど、そもそも歌に向き合うというより、声優の林原めぐみさんとして表現するものが、時に歌であるという感覚で、声優業と変わらない部分もあると。
「はい。音符がついてくるので、私にとってはハードルが高いんですけどね。“この歌詞を朗読したらすっごく楽なのに”って思うこともありますし(笑)。」
──イントネーションも何もかもが違いますもんね。そのように活動していく中で、シングル「don’t be discouraged」(1997年4月発表)をはじめとする数々のヒット曲が生まれ、奥井雅美さんが“林原は業界内で、声優業界の美空ひばりと呼ばれている”とも発言されていますが。
「いやいや、それはあの人が言ってるだけですよ(笑)。でも、2019年に美空ひばりさんをAIで表現するプロジェクト『NHKスペシャル AIでよみがえる美空ひばり』でナレーションをやったんですよ。美空さんがかつて歌っていたVTRを観ながらAIの動きを決めていくんですけど、微妙なビブラートや音符通りではない遊びを正確にすればするほど美空さんではなくなっていくみたいで、その研究をしている映像にナレーションをしながら、すごく傲ったことを覚悟で言うならば、やっていることは“似てる”と思ったんです。というのは、お客さんを“おいで”って指で招いたり、手であしらったり、ものすごく上から指を指したり、外に外に歌われる姿に、ミュージカルともまた違う、芝居や台詞のような…歌手でありながら、その歌を表現している女優さんであり、歌の中に住んでいる住人のような感じがしました。もちろんお稽古もたくさんされているだろうし、計算もされていると思うから、アドリブとは一様に言えないんですけど、フッと心に湧いたことに身を任せていらっしゃるような姿がいいなって。お抱えの振付師の方もいなかったそうです。」
“ふと降りてきた”と言っても 練っている時間はある

──ナレーションのお仕事をしながら、歌やステージ上での見せ方について考えることがあるのも今までの林原さんのご活動があるからこそですよね。今のお話のように声優業と音楽業、最初は違うものだったことに向き合う中で、ご自身にどんな影響を与えていると思いますか?
「何よりも大きいのは人との出会いですね。アルバム『Perfume』(1992年8月発表)のジャケット撮影の時に白いリボンをつけるように言われて、私は“嫌だ”って言ったんですけど、“要求に正確に答えていくのもひとつの役作りだし、仕事じゃないのか?”と言われて、“確かに”と納得したり。撮影がなければ出会えなかったメイクさんやスタイリストさん、カメラマンさんの仕事っぷりを見ながら、結局は何を作るにしても大事なのは人間力だと思うんです。だから、異業種の人とのかかわりはすごく力になりました。こんなに頑張って写真を撮ってくれているのに、こんなに頑張って音楽を作ってくれているのに、私が台無しにしちゃいけないっていう想いが強くなりましたね。」
──林原さんの幅広い活動によって“声優アーティスト”というひとつのジャンルが生まれ、今はアニメと声優はセットで広まりますし、声優アーティストを夢とする人もたくさんいますが、林原さんにはこの現状がどう映っていますか?
「声優アーティストに限らず、今後いろんなものが細分化されていくと思ってます。ひとつひとつの文化がものすごい濁流の中にあって、最終的に残るのはジャンルではなく、人なんだろうなと。声優アーティストが100人いたところで、それはジャンルでしかなくて、ジャンルが確立されたのはまごうことなき事実だけど、その濁流の中でどうなっていくのかは自分次第というか。」
──“個々の力でいかに埋もれずにやっていくか”が重要になるのでしょうか?
「私は“埋もれないように”とは思ってなくて、目の前のことで手がいっぱいだったから、とにかく与えられたものにちゃんと応える…自分で“ちゃんと”って思ってるうちは、まだ結構浅かったりもするんですけど。何十年も前に、次の日がレコーディングって時に友達が家に泊まりに来たことがあって、鍵盤を叩きながら“この音が外れちゃうんだよな”とずっと鍵盤をいじっていたら、その子に“わざわざそんなこともしてたの!?”って言われて。私がもらったものをパッと見て歌っていると思っていたみたいなんです。でも、実際はデモテープがきたら100回以上、自分の身体に叩き込むくらい聴くし、歌詞をつけるのに“ふと降りてきた”とは言っても、本当に降りてくるわけではなくて、それまでに日常生活の中でもいろいろ見て、経験して、考察して、練っている時間はあるわけで。その時間をなかったことにして華々しく出てくる声優アーティストだけを見て“自分もなりたい”って思っちゃうと、溺れちゃうかもしれないですね。白い粘土を渡されて“何かを作れ”って言われても、一日でコロッセウムみたいなものを作れるわけではないでしょ?(笑) “何を作ろう?”から始まって、煉って、水入れて、色づけをしていって、たぶんその工程を楽しめる人が残るんだと思います。“なんでこんなことしなきゃいけないの?”“売れたい!”とか“生き残りたい”って気持ちじゃなく、“どうしたらこの作品に寄り添えるか?”と。寄り添えば寄り添うほど、聴いている人にも共鳴するだろうし、売れることを目指して、アニメの展開を置き去りになってしまったら、お客さんは引いちゃうしね。“ちゃんと真剣に、大切に味わって、苦労も楽しんで取り組んでさえいれば”と言いたいです。」
ど新人の時にもらったひと言が 今につながっている

──もうひとつ林原めぐみさんに外せないのがラジオだと思いますが、『林原めぐみのTokyo Boogie Night』が1月24日で放送回数1500回を達成し、ファンとの交流や、時代の移り変わりもラジオを通して感じられることが多い中、林原さんにとってのラジオはどんなものなのでしょうか?
「今を知るための場所という感じかな? 後輩にどうやったらラジオをうまくできるのかを訊かれたことがあるんですけど、私はうまくやろうとは一度も考えたことがなくて、やりたくて仕方ないからやっているだけなんです。この番組には構成作家さんは必要ない。お便りを選ぶのも順番を決めるのも全部私なんですね。全部に目を通してるからこそ、学ぶし、笑うし、一緒に考えられるし、書ける詩がある。勉強のために読むんじゃなくて、そこにあるお便りは読みたくてしょうがないんです。ラジオで読んで、それに対してリスナーから返しが来る、本当に交流の場ですね。ラジオを1500回やったんじゃなくて、数えきれないメールとお便りに目を通しただけって感じ。それが喜びだから。」
──そんなリスナーやファンの方々も含め、たくさんの方と出会ってきた林原さんにとってのキーパーソンはどなたですか?
「間違いない人がひとりいて、音響監督の斯波重治さん。白黒テレビの頃からずっとやってらっしゃる方で、アニメ『めぞん一刻』『らんま1/2』『小さなアヒルの大きな愛の物語 あひるのクワック』と随分お世話になったんですが、最初に演出してくださった音響監督が斯波さんだったから今の私がいると思ってます。『めぞん一刻』の時はまだ私は看護学生で、第一話の収録が終わった時に、卓のミキサールームから斯波さんが降りて来てくださって“君は看護学生なんだって? 今後どうするの?”って訊かれたから、“免許を取って、最終的にはこの業界に入りたいと思っています”と答えたら、まだ第一話で“なんだ、あの犬?”しか言ってないのに“君はやっていけると思うよ”って言ってくださったんです。そのひと言で全部もらった感があったというか、神谷 明さんや島本須美さんもいらっしゃって、“斯波さんがそういうふうにおっしゃるのはすごいことよ”って、ど新人なのにみなさんが温かい声をかけてくれて。そこが全ての始まりですね。その後も演出で私が気づかない細かいところを指導してくださって、それは仕事として当たり前のことだったのかもしれないけど、ちゃんと私が理解する言葉に噛み砕いて演出をしてくださって。音響監督の三間雅文さんも斯波さんの教えを非常に継承している方で、三間さんとは『ポケットモンスター』もそうだし、『からくりサーカス』や『ちはやふる』もご一緒できて、それも斯波さんからつながっているなと思います。」
取材:千々和香苗
林原めぐみ
ハヤシバラメグミ:声優・シンガー・ラジオDJ ・作詞家・エッセイストであると共に一児の母。1986年、看護学校及び声優養成所在籍中に『めぞん一刻』でアニメデビュー。その後、数々の人気アニメのキャラクターを担当しており、現在の代表的な出演作品およびキャラクターは、『スレイヤーズ』のリナ=インバース、『エヴァンゲリオン』シリーズの綾波レイ、『ポケットモンスター』のムサシ、『名探偵コナン』の灰原 哀等。また、シンガーとしても活躍し、91年3月に1stシングルとなる「虹色のSneaker」をリリース。当時はまだ珍しかった“声優アーティスト”という存在を世に知らしめた立役者とも言える。


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